2004年12月20日月曜日

登山隊絵葉書をつくる〈Peak.21〉



 12月の初め、逢束のTさんから「加勢蛇川にサケが上りよる」という情報(ネタ)が寄せられた。
 今年に限らず、以前から加勢蛇のサケ遡上情報は何度も耳に入っていたが、発信元が特定できず、なんだか“ガセ”っぽくて信用できなかった。
 今回のは信頼できる筋からのネタである。でも実際にこの目で見なくては何とも言えない。大きさから言えば、サクラマス(ヤマメの降海型)やアメマス(イワナの同型)である可能性も否定できないからだ。
 魚種を特定するためには、捕まえるか水中撮影するかしかないが、河口付近の水は臭くて汚いから、死んでも潜る気にはならない。ということは捕まえるしかないのだ。
 捕まえたら食うのが仁義である。キャッチ&リリースは偽善でしかない。 
 キャッチ&イートこそが人の道なのだ。食わないのなら捕まえなきゃいい。
 サケの料理といえば…やっぱり塩焼きか。それとも北海道を真似てミソ仕立ての“ちゃんちゃん焼き”?刺身もいいな。ん?でも寄生虫とか危ないかな?イクラは醤油漬か…なんて“捕らぬ狸の皮算用”じゃなくって、捕らぬサケを料理しながら加勢蛇の河口へ車を走らせた。
 魚種は何であれ、川に大きな魚が泳いでいるのを見るとなんだかワクワクする。で、ワクワクなりかけていたら川の色が真っ茶色。山陰道の工事のにごり水が加勢蛇を覆っていたのだ。同時に、サケを探す企画もにごり水の中に消えた。
◇      ◇
 ということで、「琴浦・大栄両町の風景を絵ハガキサイズに切り取ろう」という企画がピンチヒッターとして登場した。
 テレビなのになぜ絵ハガキ?と思う人も多いだろうが、切り取らなければ無粋なものやら汚いもの、色んなものが映りこんでしまうんだから仕方ない。
 地蔵峠でクリアな山景色を堪能した後、谷口隊員のおすすめスポットである大栄町の瀬戸へ向かった。金毘羅さんから見た“由良川込みの街並み”が「なんとも言えない」という。3度の飯より野鳥が好きなだけあって、好きな景色もやはり俯瞰図。つまり“鳥の眼”である。
 階段を上っていくとじきの間に境内に出た。金毘羅さんは遠くから見るとそれなりに高い位置にあるように見えたが、なんだか低いゾ!
 なんて思っていたら、なんともあっさり「ここ」という声が聞こえた。


▲金比羅さんから見た由良川と街並み

 「えっ?ここ?」
 「そう、ここです。素晴らしいでしょう」
 「うーん・・・」
 多くは語るまい。感性は十人十色。どんな絵ハガキがあってもいいのだ。石州瓦の家並みはなかなかいい味出しているではないか。
 その後、田村隊員の船上山。僕の大山滝と巡ったが、やはり谷口隊員の絵ハガキはある意味出色であった。

 
▲千丈のぞきから


▲中段から見た大山滝

◇      ◇
 もうすぐ春。旅立ちの春。琴浦と大栄でも多くの人たちが故郷を後にする。
 彼らの、そして彼女たちの心の中に、故郷はどう刻み込まれているのだろう。
 一つだけでいいから、人との出会いだけでなく、海に、山に、川に、街並みに、素敵な思い出を持ってほしい。



 番組を通して伝えたかったのは、一人一人が“自分の一枚”を探してほしい、ということ。探す意欲さえあれば、きっと“自分だけの一枚”が見つかるし、きっとこの故郷を好きになれるに違いない。
 いつの日か、絵ハガキサイズに切り取らなくてもいい故郷の自然や街並みが、しぜ〜んにそこらじゅうに溢れていたら・・・と思う。

2004年11月20日土曜日

山川谷の桂・北ヶ平の水楢〈Peak.20〉



 「巨木じゃいかんでしょう」と最初に言い出したのは谷口隊員だった。去年の7月、新滝を探すため山川谷でキャンプした時、霧の中で炭火を囲みながら語り始めた。
 「このあたりには巨木と呼ばれている木が何本かあるけど、何百年、木によっては千年以上も生きてきたものを、単に巨木として片付けるのは、同じ生きものである木に対して失礼じゃないですかねぇ」。
 これまで一度も考えたことのないテーマだったが、言われてみればもっともだった。
 『巨』という字の意味を広辞苑で引くと、大きいこと・偉大なこと・多いこと、とある。巨匠という言葉があるように、良いイメージで用いられることもあるのだが、多くは、ただ大きいだけ、の意味で使われている。
 琴浦町宮場にある“伯耆の大シイ”は、樹齢が千年を超えると言われている。千年前と言えば平安の中期。紫式部が源氏物語をしたためた頃である。父−祖父−曽祖父と代々さかのぼっていけば、実に40代前の祖先が生きていた頃なのだ。
 紫式部や40代前のおじいちゃん、おばあちゃんと同じ時代に生まれ現在まで生きた木に、大きいから『巨』をつけとこう、という発想では寂しすぎる。
 白い巨塔、巨悪、巨人・・・etc。そもそも『巨』という字に良いイメージがないことが問題なのだ。
◇      ◇
 町の天然記念物に指定されている“山川谷のカツラ”を訪ねた。
 三本杉から車で10分ほど。林道脇に比較的新しい標柱が立ち、谷の方角を指して“山川谷のカツラ300m”と書かれている。


▲琴浦町内にある巨木を紹介する看板から撮影は始まった

 このカツラを見に行くのは今回で二度目。この春に“らくらく山歩会(さんぽかい)”の山行で訪れたのが初めてだった。
 その時は、事前情報がなかったので木がどこにあるかわからず、長靴がなかったので橋をつくって川を渡り、とりあえず前に進んだら、杉林の中で見つかった。見つかった、と書かなければならないほどわかりにくかったのだ。
 カツラの木がある場所まで立看板でわかりやすく案内して、なんて言うつもりはさらさらないが、標柱に説明板をくっつけてもバチは当たるまい。
 ところでその“らくらく山歩会”。このサークルは「山を楽しみながら、山を大切にしていこう」と、2002年の春に産声をあげた。現在の会員はおよそ90人。中年というか、もうちょっと上というか、その辺の年代の女性が圧倒的に多い。でも、年齢に似合わず(失礼!)抜群のパワーを誇っている。
 活動のフィールドは東大山が中心。僕も会員の一人だが、らくらく、とは名ばかりで、一日中山を歩いて下りてくると、体がボロボロになっているような活動がままある。
 反対にわが登山隊は妥協の繰り返しで、「どこがヒィーヒィーだいや?」と自問したくなることが、これまたままある。
 お互いに、“ヒィーヒィー山歩会”そして“中年らくらく登山隊”と改名した方がいいのかもしれないなぁ…。
◇      ◇
 標柱の脇をすり抜けて、荒れた散策道を下りていくと、当たり前だがやっぱり川があった。でも今回は春の事前情報があったので、全員がきっちり長靴を装備していた。
 いくつもの台風にかき混ぜられて、今年の秋の紅葉は全国的に今ひとつだったとか。もちろん山川谷の木々も例外ではなかった。水底には縁を擦り傷で茶色く変色させたたくさんの落ち葉が積もり、穏やかな水面には晩秋のやわらかな陽射しがやさしく踊った。
 川をザブザブ横切るとすぐ杉林。そして、家来の杉をぐるりと従えるように、主(あるじ)のカツラがそびえていた。


▲山川谷のカツラ

 デコボコして計りにくいことこの上なかったが、とりあえず目通り(目の高さの幹の直径)は3m弱。いったい何年生きているのか見当がつかない。
 “妖怪ババァ”の衣装のようにささくれた感じの太い幹が4つに分かれ、しわくちゃで細長い腕のように天に伸びている様は、杉林の中の暗さも手伝ってか、妙におどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。
 地面に落ちた葉が、甘く匂うのはカツラの特徴だ。葉が枝についている時はなんにも感じないが、地面に落ちてしばらく時間がたつと匂うのだという。カラメルに似たあまーい香りは晩秋の森を歩く楽しみの一つでもある。
 一向平から吊橋に向かう途中、お不動さんのすぐ近くにも大きなカツラの木がある。来年の落葉期には、皆が鼻をくんくんさせながら通るのもいいかもしれない。
◇      ◇
 吊橋を過ぎ、大山滝へ向かってしばらく歩くと、右手に北ヶ平(きたがなる)へ上がる小径が現れる。むしろ踏み跡と言ったほうが正しいのかもしれない。漫然と歩いていたら見逃してしまう、油断も隙もない小径である。
 そこをヒィーヒィー登り、もひとつヒィーヒィー言いながら谷を越すと、琴浦・大栄両町で一番大きなミズナラの木が見えてくる。
 目通り2m40cm。一部の人たちからは、鳥取県一の呼び声が高い南大山のミズナラを凌ぐのでは、という声も聞かれるほどの太さである。


▲その大きさと存在感に圧倒されてしまった。ミズナラと田村隊員。

 この木も、300年とか500年というレベルで生きてきたものに違いなかった。
 みごとにVの字に分かれた幹を見上げながら谷口隊員が改めて言った。
 「やはり、『巨木』ではいけません」
 僕も改めて言った。
 「もっともである」
 では、どういう呼び名にするのか??。目下思案中だが、敬い、尊ぶ気持ちのあふれたネーミングにしたいと思っている。視聴者の方からもアイデアを募りたい。あらかじめことわっておくが“巨”額の謝礼は絶対にない。

2004年10月15日金曜日

大水のあとで〈Peak.19〉



 昔、といってもほんの40年ほど前。僕がまだ子どもの頃のことだ。
 雨がたくさん降って加勢蛇川に大水が出ると、夜中にゴーッという水の音に混じって、ガラガラと大きな石が転がる恐ろしげな音が聞こえてきたのを覚えている。 
 2、3日たって水の濁りがとれてから川へ行ってみると、それまでとは川姿が一変しており、探検気分でわくわくしながら川原を歩いたものだ。
 “ガラガラ”の原因だった背丈ほどもある石が、まるで以前からそこにあったように、少しだけ砂に埋もれて配置され、それまであった淵が玉砂利で埋まっているかと思えば、別の場所に淀みができていたりした。
 そんな正しい川原が、砕石業者によって奪われたのは、これまたほんの35年前。その後のえん堤工事が川原を含めた加勢蛇川破壊を完璧に仕上げた。
 公務員的発想により、大水が出たときに魚道やえん堤が壊れないように、大きな石は工事の段階で取り除かれてしまった。
 えん堤によって支配された急峻で直線的な流れは、砂を一気に海へ流す。転がる石がないから、なくなった砂も補充されない。そして水も浄化されない。
 こうして加勢蛇川は、川とは名ばかりの図体のでかい水路として、世間から身を隠すように、雑草に埋もれながら細々と生きながらえてきたのだ。
◇      ◇
 そんな加勢蛇川が、一時的ではあるにせよ生き返った。その立役者は、この秋何個もやってきた台風である。
 10月15日。野井倉橋の上から見た加勢蛇川は、加勢蛇川だけど加勢蛇川じゃないみたいだった。「わけがわからんこと言うな」と叱られそうだけども、別人ならぬ“別川”になっていたのだ。
 谷口隊員がいみじくも言った。
 「これは黒尊川ですか?」
 黒尊川とは高知・四万十川の最も美しい支流のこと。去年、この登山隊で高知遠征したときに半日ほど遊んだ。心の中まで透かし通されるような清冽さが今でも忘れられない。
 「川は曲がっていなければ・・・」
 「川には砂がなくては・・・」


▲野井倉橋の上から見た加勢蛇川。黒尊川みたいだった

 番組などを通じて、何度も何度も訴えてきた川の最低条件。野井倉橋周辺だけかもしれないが、曲がりなりにもそれをクリアした加勢蛇川が目の前にあった。
 橋の上手にある要塞のようなえん堤から、下手のこれまた要塞のようなえん堤まで距離は300mほどだろうか。橋の上手では右岸側にあった流れは、下手では淀みをつくって左岸側を流れている。
 広い川原を横切る流れは、当然のように曲がり角の内側に砂州をつくっていく。上流から運ばれてきた大小の石はピカピカに洗われ、砂も白く生まれ変わっていた。
◇      ◇
 大法の川原に下りた。何を隠そう、子どもの頃、僕のホームグラウンドだった場所だ。とは言っても、その頃とはまったく川姿が変わってしまっている。


▲大法の川原 隊長の子どもの頃のホームグラウンドだった場所

 今でも夏になると、時々「川に行って遊びたいなぁ」と思うことがある。しかし、実際に川原を目の前にすると、その意欲がしぼんでしまう。水の中以外に身をおけそうな場所は、えん堤のコンクリートの上しかないのだ。昔あった石と砂の川原なんて死んでもない。表現が不適切だとまたまたお叱りがきそうだが、やはり、「死んでもない」のだ。
 皮肉にも、水が冷たく感じられる頃になると、草の勢いも少し衰え、長靴ならなんとか踏み入ることができるようになる。
 その川原の植物事情がここ数年で様変わりしている。2,3年前まで、とくに中流域と下流域では、葦とクズが縄張りを分け合いながら二大勢力として幅をきかせていたが、昨年あたりから新興勢力が一気にのしてきた。
 カナムグラ(金葎)とセイタカアワダチソウ(背高泡立草)である。カナムグラはつる状で痛いトゲのあるやつ。
 セイタカアワダチソウは、アレルギーの元になる外来植物として有名になった。毒を出して隣の植物を枯らしながら自らの陣地を広げていく、まるでどこかの性悪女のような嫌われ者である。


▲セイタカアワダチソウ

 クズとカナムグラには、繁殖し過ぎると自ら枯れていく自浄能力があるようだが、“性悪女”にはつける薬がないと言われている。やっぱり春先に川原を焼いて、悪の芽を摘み取るしかないのだろう。
◇      ◇
 大法付近は水量が多く、数か所で分流していた。でも基本的にはえん堤の範囲内に収まって大人しく流れていた。ただ、川底はきっちり洗われていた。
 干上がりそうな水溜りで、タカハヤとドンコ、サワガニを獲った。大水のあとは、川原のあちこちに水溜りができて、取り残された魚がバチャバチャ暴れていたりする。時にはとんでもない大物がいることも。川遊びの楽しみのひとつである。
 逢束の河口で、1年前と同じようにゴムボートを漕いだ。野井倉と大法と同じように、大水に洗われて、美しく変身しているはずだった。
 そう、はずだった。だけど、現実は厳しかった。汚いどころか臭かった。
 番組の中でも言ったが、川原が荒れているから、公共心のかけらもない不心得者が何でも捨てるのだ。
 “曲がりなり”でもいい。川は曲がりさえすれば、なんとか川らしい川になる。しかし、不心得者の曲がった性根はどうしたらまっすぐになるのだろう・・・。

2004年9月20日月曜日

大休峠避難小屋で〈Peak.18〉



 山の雨は、パチン…パチン…と雨粒が葉に当たる音から始まる。その音は季節によって微妙に違う。新緑の頃は若葉に吸い込まれるような柔らかい音。夏場は雨粒をはね返すような張りのある音。秋は葉っぱがヒラリと身をかわすのだろうか、擦れたような音がする。
 大休峠の避難小屋まで“あと500m”の道標脇で一息ついた。大山滝吊橋手前が工事中で通れないため、香取から上ってきていた。

 今回のテーマは琴浦町誕生記念登山。大休峠の避難小屋に一泊して、早朝から旧東伯町の矢筈ヶ山(1359m)へ登り、旧赤碕町の甲ヶ山(1338m)、勝田ヶ山(1149m)へ縦走して夕方に船上山に下りる計画をたてた。海側から旧国道、そして国道9号線と旧東伯町と旧赤碕町をつなぐ道はいくつかあるが、その最南のルートを踏破して、琴浦町の誕生を祝おうという魂胆である。
 道標脇での一息がついつい二息になった。仲間うちだけの登山は、いつも休憩が長くなってしまう。9月とはいえ、山の日暮れは早い。4時には小屋に着いて、水汲みや晩飯の支度をしなければならなかった。
 「さて」と腰を上げかけた時である。
 バサッ!バサッ!
 ブナの葉っぱが破れそうな音がして、大粒の雨が落ちてきた。秋の雨は擦れたような音のはずだったのに、風情のないやつである。
 とりあえず大木の下で雨宿りをきめこんだ。しかし大木の下と言っても、葉っぱの貯水が飽和状態になれば、その水を地面に落とすのは必然である。天から降ってくるのと同じ分量が葉っぱから落ちてくるのに、さほど時間はかからなかった。
◇     ◇
 今回はレギュラー隊員の他に、準隊員の浜本隊員も参加した。谷口隊員が仕事の都合で、翌日の早朝に合流することになっており、小屋泊は4人である。
 その小屋の中には、運動会の万国旗のようにシャツやタオル、靴下ほかその他大勢が並ぶことになった。
 ブナの大木と決別し、石畳の上を走るように歩くこと10分。全員頭からびしょ濡れになって小屋にたどりついたのだ。濡れたのは体だけではない、ザックの中の荷物も被害者だった。
 小屋の周辺のブナが数本倒れていた。台風18号の置き土産である。大きな図体をしているくせに根が案外短くて少ないブナは、台風の犠牲者になりやすい。特にこの時期は葉が充実しているので、風の影響をもろに受けることになる。


▲台風で大きなブナが倒され、石畳を引き剥がしていた

 このあたりのブナは、立ち枯れ気味のものが相当数あり、それらは特に折れやすい。自然淘汰の一環と見る向きもあるが、酸性雨などなんらかの環境異変要素が影響していることも考えられる。でも、倒れた木の周辺には、ブナの幼木が確実に育っている。
 「長い間ごくろうさん」とねぎらってやるのが、倒木への正しい接し方なのかもしれない。
 天気が悪いと小屋の中が一層暗く感じられる。万国旗が垂れ下がっているからなおさらである。カンテラを灯して晩飯の支度にとりかかった。
◇     ◇
 翌朝。まだ外が暗いうちから、浜本隊員はカンテラに靴下をかざしていた。丸太製の小屋の中は外の湿気とほとんど同レベル。万国旗はほんの気持ちほどしか乾いていなかったのだ。
 「えーがな、濡れたのを履いたら。履いとったら乾くわい」とたしなめても、「靴下だけはいけません」と取り合わない。
 濡れた靴下に相当強烈な思い出でもあるのだろうな、と思いながら小屋の外に出てみると、あたりはガスに覆われていた。
 7時前に谷口隊員が到着。すると計ったように雨が降り始めた。
 「遅刻しちゃいけない」と、休憩を一度しかせずに早足で登ってきたと言う。やはりこういう真面目な考え方には、雨も遠慮してくれるのだろう。たいして辛くもないのに何度も休んだりするから土砂降りに遭うのだ。
 しかし困った。雨が降ってしまうと、小屋−矢筈ヶ山−甲ヶ山−勝田ヶ山−船上山ルートは断念せざるを得ない。
 予定通りの行程だと「ものすごくつらい」のはわかっているから、内心、「少しだけ嬉しい」部分があるのだけれど、せっかく都合をつけて隊員全員が集まって、本格的に「ヒィーヒィー」言えそうな企画だったのに…。濡れたままの万国旗をザックにしまいながら、「ヒィーヒィー」とは縁遠い “大山道の続編番組”へと日和っていった。


▲四百年前に敷かれたという石畳は、今でも現役。おかげで、ぬかるむ道に難儀することもなし。その仕事の立派さに脱帽

◇     ◇
 浜本隊員の靴下はなかなか乾かないようだった。それとは何の関係もないけれど、小屋の脇に倒れたブナの根元からは、年代もののゴミが忽然と姿を現していた。
 特にビール缶が多い。そのデザインを見ると二十数年前のものに違いなかった。
 スーパードライに主役の座を奪われる前のキリンラガーが泥にまみれながらも存在感を誇示していた。アサヒは文字通り朝日のデザイン。サントリーのペンギンズバーが懐かしさをかきたてた。
 これは、後から聞いた話だけれど、倒れたブナの根元には、昔はゴミ捨て用の穴があったという。今ほどゴミや環境にうるさくない、ある面ルーズな時代の名残とも言える。
 とはいえ、空き缶やビニールが自然に帰るはずもない。ルーズな時代を肯定することもできない。山に持ってきたものは、たとえおにぎりの食べ残しや果物の皮一枚でも、持ち帰るのが大原則である。
 原則を真面目に守ってこそ、美しい環境が守られていく。真面目に生きれば土砂降りにも遭わない。靴下も乾かさなくてすむのだ。

2004年8月20日金曜日

大山道は今・・・〈Peak.17〉



 大山は平安時代から山岳仏教の聖地としてあがめられてきた。遠く厳しい道のりを苦にもせず、聖地・大山に集う信者や廻国行者。博労座では牛馬の市も開かれ、たくさんの参拝者でにぎわった。
 そんな人たちが、そして牛や馬が歩いて通ったのが大山道(だいせんみち)である。繰り返すが、すべて徒歩である。なんてことはない。ほんの50年ほど前のことなのだ。
 その大山道には5つのルートがあった。それぞれ沿道の主な地名の冠がついている。
 坊領道は、博労座下の分れ地蔵から坊領を通って阿弥陀川沿いに海岸部まで。
 尾高道は米子から大山に上がる県道24号線。車道の脇には慶長年間に植えられたクロマツ並木と一丁地蔵が並んでいる。
 大山環状道路に並行する形で横手道。
 溝口道は枡水を経て金屋谷から出雲街道の宿場・溝口へ。
 川床を経て羽田井(中山方面)と船上山(赤碕方面)、そして大休峠を越えて一向平。この三通りの道を総称して川床道と呼ぶ。一向平からは地蔵峠を経て、さらに関金へと延びている。
◇      ◇
 以前、この欄に「本隊の最少催行人員は3人である」と書いたことがあった。旅行社がツアーを組むのに、「最低この人数が集まらんと、赤字になっちゃうから旅行は取りやめよ」というのが最少催行人員である。わが登山隊の場合、別に儲けようとは思っていないが、“登山隊”とうたっている以上は、最低2人は画面に映らなければ格好がつかない。当然カメラマンも必要だから、合わせて3人、というわけである。
 今回は昨年11月以来の3人だった。僕の他には田村隊員と谷口隊員だけ。まぁ仕方ない。画面は寂しいけど、フットワークが軽くなると思えばそれもまたよし。
 というわけで、川床道の一向平ルートを歩いた。大山道の中で、一番原形をとどめているルートでもある。
 県道倉吉江府溝口線と県道東伯野添線の合流点、と言ってもわかりにくいなぁ。関金から上がってくる道に、野井倉から上がる道がぶつかる場所、が出発点になった。そこから、旧東伯町の川床道がスタートしているからである。
 とは言っても一向平までの道は、県道東伯野添線などによってずたずたに寸断されている。でも、川床道=中国自然歩道だから、立派な道標はちゃんと設置されている。
 このあたりの山のことなら何でも知っておられる野井倉の松本薫さんに道案内をお願いした。道が荒れ放題で、どこにどう道がつけられているのかわからない恐れがあったのだ。


▲大山道の地蔵峠を越える。矢筈ヶ山や甲ヶ山が正面に見えた。

 足もとを見ると、地蔵峠に向かってコンクリートの杭で階段が整備されているのが確認できるが、なんせ草が背丈ほどもある。カヤが多く、半袖で来たことを後悔した。
◇     ◇
 急な上りを5分ほど、横手道をものの2分。
 急に眺望が開けた。なんともあっさり地蔵峠についたのだ。低い木立の隙間から伸び上がるように大矢筈と小矢筈。その北側に甲ヶ山と勝田ヶ山が連なっている。
 地蔵峠と言えば、今では県道脇のやぐらに似た展望台がそのシンボルになっているが、正統派というか元祖・地蔵峠はまぎれもなくこの場所である。
 峠の名称の由来になった地蔵と、道標の役割を持つ一丁地蔵。2体の地蔵様が、きれいに草が刈られた台地に鎮座していた。松本さんによれば、往来華やかりし頃は、この場所に茶屋があったという。
 それにしても、県道東伯野添線ができる昭和50年代半ばまでこの道は現役だったのだ。とは言っても関金との実際の行き来は、この川床道ではなく自動車で里を経由していたのは明らかだが、それにしても、わずか二十数年前である。
 峠の地蔵様は万延元年作と彫られていた。西暦1860年。一丁地蔵もその頃作られたものに違いない。


▲この道の盛衰を見続けてきた地蔵峠の一丁地蔵

 江戸末期からずっとこの場所で、当たり前だが身じろぎもせず、夏の日差しに焼け、氷雪に埋もれ、この道の盛衰を見続けてきたのだ。
 「地蔵様が『達者でな』と励ましてくれているような気がする。道しるべはこうでなくては…」と谷口隊員。
 一丁地蔵には漢字の“標”より平仮名の“しるべ”がよく似合う。
◇      ◇
 峠を越えた道は、一向平進入路の200mほど上手に下りてきていた。もちろん県道に寸断されている。
 「このあたりは採草地で、野井倉からの道と中津原からの道がここで交わっとったです。毎年春になると山を焼いたもんですわい」と松本さん。
 今は杉が植林され、当時の面影はまったく残っていないが、暮らしの中で実際に川床道を歩いていた松本さんの言葉は心に染みた。
 歩く??。
 歩けば雲、草、花、虫、樹、すべてのものが歩くのと同じ速さで動いていく。
 地蔵峠から一向平まで、車で走れば10分足らず。歩けばたぶん1時間近くかかるだろう。
 でも車の6倍の時間をかければ、6倍たくさんのものを見ることができる。大山道を通ったいにしえの人たちの思いにも触れることができるかもしれない。
 せっかく身近にある大山道、あなたも歩いてみませんか?

2004年7月29日木曜日

今度は矢筈川を遡(や)る〈Peak.16〉



 大父木地から矢筈川を遡った。4月に飯盛山の山頂から見た『赤滝(あかだき)』の優雅さが忘れられなかったからである。
 日程には余裕があったはずなのに、また放送日(7月30日)前日の決行になってしまった。ボロボロになって山から下りてきて、すぐ編集に取りかかるのは、エライってわかっちゃいるけど止められない。何事もギリギリになってから腰をあげるのはO型人間の悲しい性なのだ。
 4月の飯盛山に続いて、この辺りの山という山を踏破している大父木地の小椋弘志さん(67)が特別参加。矢筈川源流への水先案内をしてもらった。
 矢筈川は滑る。とにかく滑る。ずるんずるん滑る。長年、川と付き合っていれば滑る石とそうでない石は見ただけでわかるが、矢筈川のヤツはクセ者である。表向きは優等生なのに実はとんでもないワル??そんな石が多い。逆に苔がついていかにも滑りそうな石が安全だったりする。
 一寸先は水の中。矢筈川は権謀術数渦巻く都会の盛り場みたいな川なのだ。
 歩き始めてすぐ、なんとなんとイノシシに出合った。断っておくがブタではない。紛れもない野生のイノシシである。ん?山の中ではブタと出合う方が珍しいって?ならあっさりと、イノシシがいた、と書いておこう。
 何はともあれ山道のすぐ脇にイノシシが寝ていたのである。第一発見者は小椋さん。というか、獣の臭いは誰もが感じていた。
 野生動物保護的に様々な事情があって詳しくは書けないが、不意に安眠を破られ、寝床さえも奪われたイノシシは、うらめしそうに我々の方を振り返りながら、山の中へ消えていった。
 「ごめんよ。俺たちが侵入者なのにな」 
◇      ◇
 1時間近く歩くと杉の人工林が影を消し、トチ・ブナその他の落葉広葉樹が目立ち始めた。同時に谷がどんどん狭まり、上り傾斜もきつくなってきた。川底は相変わらず、すべった。
 右手に雨のように飛散しながら、赤茶けた岩肌を落ちる滝が現れた。小椋さんによると、地元の人たちは“赤滝”と呼んでいるという。
 「えっ?赤滝?」
 今回の矢筈川遡行の目的は、源流を極めること=赤滝を撮影すること、である。4月に飯盛山の頂上から見た赤滝は、遠景ではあったが、水量たっぷりに、矢筈ヶ山と甲ヶ山の間をなまめかしく蛇行しながら滑り落ちていたのだ。
 だから、目の前のシャワーみたいな滝は、誰が何と言おうと赤滝ではなかった。
 「なまめかしさを求められてもなぁ…」とシャワー滝は反論するかもしれないが、ガキの滝に発言権はないのだ。
 だいいち、地図によると3段滝となっているのに、上の方は何にも見えないではないか。もっと遡れば、ガキの滝ではない、美しい大人の滝が姿を現すはずである。


▲田村カメラマン滝シャワー

 ということで、その滝を“通称赤滝”と整理して、さらに上流を目指した。
しばらく行くと、風の通り道なのだろうか、10mほどの幅で草が倒れている崖があった。光の加減で草の滝のように見える。
 “青滝”と呼んでいる、と小椋さん。
 「なるほど」
◇      ◇
 この峡谷は昔から『赤谷』と呼ばれてきた。石の種類はわからないが、崖と川底の色が“赤”の語源になっていることは間違いない。
 地図を見ると両サイドとも『崖』の表示。
 「土砂降り即鉄砲水はいやよ」と、なよなよしながら山の神様にお願いしたくなるような、逃げ道のない谷である。
 矢筈川の源は文字通り矢筈ヶ山だが、右の崖(左岸)を落ちてくる水は、甲ヶ山からのものに違いない。シモツケソウやクガイソウ、ソバナなど深山特有の花も崖のあちらこちらに咲いていた。
 しかし、歩けど歩けど、目指す『赤滝』が現れない。地図を見ると右の崖を流れ落ちているはずである。
 流れはどんどん乏しくなっていった。谷底がどんどんかさ上げされ始め、源流が近いことがわかる。春と夏では圧倒的に春の方が水量が多いに決まっているが、それにしてもあの優雅な滝はどこに消えてしまったのだろう。
 そうこうしているうちに、高さ10mほどの滝が行く手をふさいだ。手がかり、足がかりになりそうな石は例によってズルズル。ハーケンやザイルなどの装備なしでは越えることは不可能だ。
 万事休す。


▲滝とくればやっぱりソーメン。うまさに感激し、黙々と食べる。
 
◇      ◇
 ところで今回、正隊員から浜本隊員が抜けた。出席率が悪いから除名したのではなく、本人の申し出による。
 彼はカウベルホール担当のJA職員だが、テレビに映るたびに遊んでいるように見られて「ちょっとつらい思いをしていた」という。
 この登山隊の活動は平日が多く、彼は休みをとって参加してくれていたのだが、まわりの人たちに、そこのところをなかなか理解してもらえなかったようだ。
 今回は川が舞台だったから、彼の十八番(自称)の釣りで、昼飯にはイワナの塩焼きが登場するはずだったのに…。残念だけど仕方ない。彼には準隊員を命じておいた。
 ところで(ん?二度目か)、この原稿を書こうと滝の本を調べていたら、“通称赤滝”が本物の『赤滝』であることがわかった。
 文中のガキの滝(シャワー滝)は、3段滝の下段にあたり、中段と上段は下からは見えないと書いてある。たぶん滝と滝との間隔が離れているだろうから、飯盛山の山頂からは蛇行しているように見えたのだろう。
 さすがに都会の盛り場のような川である。奥が深い。ブタはいないがイノシシがいる。
 矢筈川恐るべし…。

2004年6月15日火曜日

花と緑と雪渓と・・・〈Peak.15〉



 6月5日、朝8時。江府町鍵掛峠の少し下手にある県民の森入り口。快晴。この日は、鳥越峠を経由して地獄谷に下り、加勢蛇川最上流の魚断(うおどめ)の滝へと向かう。
 6月になってもなお深く残る雪渓と鮮やかな緑、そして下界では見ることのできない植物を通して、ふるさとの自然の素晴らしさを再認識してもらおうという企画である。
 朝倉シェルパ隊長が欠席した。理由はなんと新婚旅行。三脚を担いで、我々と一緒に山を歩くよりも、きれいな彼女と二人だけでスペインの街を歩きたいと言う。
 「仕事の都合で」なんて理由は認めないけど、こーゆーのはいい。スペインの街といわずシベリアでもアフリカでも、地の果てまで二人で歩いていきなさい。
 なんだか牧師調になってしまったが、ならば、ということで本隊最年少の浜本隊員が、シェルパ隊長に代わって三脚を担ぐことになった。
 この日は土曜日。森の入り口でぐずぐずとザックにテープやバッテリーなどの機材を詰め込んだり、番組のイントロ部分を撮影したりしているうちに、10人ほどの登山客がさっさと森の中へ消えていった。
◇     ◇
 大休峠周辺や地獄谷を中心とする東大山は、大山の夏山登山道のようにメジャーではないが、自然のレベルは圧倒的に高く、そして濃い。特に週末は四季を通じて訪れる県外のリピーターで賑わう。
 ん!?県外?
 そう県外なのである。地元の人は少ない。近いからお金をほとんど使わないで、素晴らしい宝物を手にいれることができるのに、手を出すのは県外の人が圧倒的に多いのだ。
 「鳥取はいけんわい。人口が日本一少ないから、なーんにも遊ぶところがないし、賃金が低いから遊ぶ金もない」と嘆く声をよく耳にするが、そんな人は、身近にある素晴らしい自然に価値を見出せない、己の心の貧しさを恥じた方がいい。
 歩き始めるとすぐ、白い小さな花が目に入った。今回は、花と名がつけば、とりあえず何でも撮影しようと決めていた。
 道ばたの雑草でも名前がわかると妙に愛着がわく。大山の花の図鑑を調べると、その花は『ホウチャクソウ』と出ていた。お堂の四方にあるホウチャク(大型の風鈴)に似ていることから名づけられたという。
 すぐ近くで、ユキザサとマムシグサも撮影した。ユキザサは白い花の集まりが雪に、葉が笹に見立てられている。マムシグサは茎の模様が蛇のマムシに似ているからだという。
◇      ◇
 植物の名前探しは、以前は図鑑の独壇場だったが、最近ではインターネットで検索したほうが早い場合が多い。図鑑は名前がわからないと手間取るが、インターネットだと写真さえあればなんとかなる。
 デジタルカメラかケータイでパチリとやっておいて、あとは家でゆっくりと、昼間の山歩きを思い出しながら調べるのも楽しい。
 鳥越峠の手前でシオデの花を見つけた。シオデはこの辺ではあまり馴染みがないが、東北方面では<strong>“山菜の女王”</strong>と呼ばれるメジャーな山菜のようだ。
 「女王はええけど、どのへんが女なんだろうな。王様と女王はどこで区別するんだろう」
 疑問に思いながらもインターネットで調べると『グリーンアスパラにそっくりの味』とある。
 えーかげんにせーよ。
 山菜の女王と称えながら、栽培種のアスパラにそっくりなんて、あまりにシオデが気の毒じゃないか!
 「他人家(ひとげ)のホームページを見て怒るないや」とたしなめられそうだが、自然観が貧しすぎる。石や土・草で守られ、時には崩れる昔ながらの小川よりも、U字溝やコンクリート三面張りの水路をありがたがるのと同じ発想だ。
◇      ◇
 ヒィーヒィー言いながら鳥越峠を越え、江府町から東伯町へ入った。TCBのある逢束から見れば、大山と烏ヶ山の間の一番低い場所を、向こう(南)側からこちら(北)側へ越えてくる格好になる。


▲先頭は決まって隊長の指定席。隊員を引き連れ、あえてイバラの道を行く

 地獄谷までは1時間足らずの道のり。大きなブナの木が目立ち始め、木立の間を涼やかな緑色の風が走り抜けていく。
 「トッキョキョカキョク(特許許可局)」とホトトギスがさえずる。「テッペンカケタカ」と聞こえる人もいるようだ。こうして、鳥の鳴き声を何かの言葉にあてはめることを『聞きなし』と言う、と野鳥に詳しい谷口隊員が教えてくれた。ウグイスの「ホーホケキョ」もこれに当たる。
 矢車草の大きな葉っぱが目立ち始め、駒鳥山小屋が見えた。
 東伯町を貫流する加勢蛇川。一向平から上流を地獄谷と呼ぶが、大山滝上手の大休口をその北口とするなら、駒鳥山小屋は南口である。


▲地獄谷上流部にある「駒鳥山小屋」。無人の避難小屋で、宿泊できるが、内部は暗くできれば泊まりたくない。1950年に建てられた。

 大山東壁の稜線がすぐそこにある。テレビカメラをズームインすると、縦走中の登山者の姿が見えた。足下にはダイセンクワガタ。スミレに似た大山特有の高山植物で、細いガクで実の包まれた様子が、兜の鍬形に似ていることから名づけられたという。
 川原を30分ほど歩くと、泥だらけの雪に守られるように魚断の滝が姿を現した。同時に中空になった雪渓が我々の行く手を阻んだ。ここまでだ??。
 崖に広がる山アジサイが、水色に開く日を心待ちにしていた。矢車草の白い穂花も出番を待っている。快晴の峡谷を見上げれば、ブルーバックに鮮やかな緑のコントラスト。
 谷にせり出した高い木の上で、オオルリが「ピピーリリ」と鳴いた。

2004年5月10日月曜日

由良川を下(や)る〈Peak.14〉



 このヒィーヒィー登山隊シリーズの放送が始まって、もう1年が過ぎたのに、大栄町が1回も登場していない。山がないから、登山隊の活動フィールドがない、と言ってしまえばそれまでだが、ならば、ということで5月の連休明けに由良川をカヌーで下ることにした。
 由良川に沿って車を走らせる機会がたまにあるが、いつ見ても濁っている。昔ならいざ知らず、いまどき生活廃水が流れ込んで濁るなんてことはなかろうに。なぜ由良川は“あんな”色をしているのか不思議だった。
 川をカヌーで下るには、何はともあれカヌーが必要である。カヌーは高い。1人用の一番安いやつでも十数万円。身近にいつでも遊べる川があれば、買い揃えてもいいのだろうけど、えん堤だらけの川では猫に小判、豚に真珠である。
 となると、借りるしかないのだが、大山町にある県立大山青年の家が候補にあがった。よく赤松の池でカヌー教室を開いている。問題は貸してくれるかどうかだ。早速電話してみた。
 「あの〜カヌーを借りたいんですけど…」
 「だめです。赤松の池以外での使用はできないことになっています」
 まぁ、見事なほどそっけない返事。にべもなく断られた、とはこんなことを言うのだろう。県民なら誰でも抱くであろう不満を口にしようとしたが、アホらしいのでやめた。
 結局、カヌーは用瀬(八頭郡)で借りた。町の所有だが、千代川でたびたびカヌーツーリングなどのイベントを企画しており、町外の人の参加が多いので、融通をきかせてあるのだろう。青年の家の対応とは打って変わって、ふたつ返事で快く、しかも安く貸してくれた。
 青年の家の担当者は「規則だから」で逃げるだろうが、週末以外は遊んでいる施設や設備を、どうしたら有効に活用できて、県民に多く利用してもらえるかを考えてほしい。施設を運営していく上で、どうしても規則が必要なら、それらのことをよりどころにして規則を作ってほしい。
 なんとも真面目な話になってしまったが、このことは3町にある施設についても同様である。
◇      ◇
 島集落の少し上手、西穂波の入り口にあたる中橋の下にカヌー4ハイを浮かべた。撮影用のカナディアンが1パイ。あとはカヤックの1人艇である。カナディアンは3〜5人用だが、田村カメラマンを乗せ、朝倉シェルパ隊長が1人で漕ぐ。
 本当はもっと上流から下りたかったが、えん堤があるし、水が少ないから、空き缶やら油やら得体の知れんゴミが目立ち過ぎて、とても向かう気にはなれなかったのだ。
 シェルパ隊長以外は昨年秋に高知・四万十川でカヌーの初体験を済ませている。水深がないので、滑るようにとはいかなかったが、船底をゴリゴリいわせながら漕ぎ出した。
 いざ、出発!
 ヒバリのさえずりを聞きながら、パドルをゆっくりと回すと、ミズスマシのように体が水面を滑っていく。なんとものどかな川下りである。相変わらずゴミが多いのはいただけないが、なかには“昭和”を偲ばせるものも。一度捨てられたら二度と流れない−由良川のゴミの宿命である。


▲撮影用のカナディアンに田村カメラマンが乗り、朝倉シェルパ隊長がこぐ。他の隊員は一人艇でスイスイ。

 川が濁っている理由が一つだけわかった。泥の粒子が細かいのである。静水では沈殿していた泥が、小波一つで巻き上げられ、川全体を覆っていく。そして、再び沈む前にまた巻き上げられる。
 コンクリートの護岸が案外少ないのも新しい発見だった。瀬戸より下流は、さあ工事、え?また工事!?の連続で、川としての体はなしていないが、島茶屋までは“れっき”とした川である。
 ときおりウグイが跳ねた。泳いでいるシマヘビが1匹。2匹が川岸で眠っていた。
◇      ◇
 のどかさをぶち壊したのは、カナディアンの転覆だった。昼飯(どさん子大将のラーメン)のために上陸しようと、島茶屋の合流点から100mほど円城寺川を遡った地点が事故現場である。
 10mほど離れて、その一部始終を見ていたが、信じられないほど見事に、田村カメラマンが頭から水の中へ落ちた。と思ったら、反動でフネがひっくり返り、シェルパ隊長も水の中へ。この時ほど自分の手許にカメラがないことを悔やんだことはなかった。
 −カメラが沈してどうするだぁ。なんぼ水の中に落ちたって、撮影してなかったら意味がないがな−


▲お昼を食べるために上陸したが、カナディアンが沈。フネとともに隊員の心も沈む。

 口では、大丈夫かぁ?と気遣ったふりをしたが、内心は不満たらたらで、フネの上から復旧作業の様子を冷たく見守った。
◇      ◇
 午後になって、河口からの向かい風がきつくなった。漕がないまま流れていると、フネがどんどん上流に押し戻される。波が立って、まるで海みたいだ。
 浜本隊員と入れ替わってカヤックを漕いでいたシェルパ隊長が、JRの鉄橋上手で沈した。それも元気良く2回も。ん?ウケ狙いか!?いやいや理由などどうでもいい。他人の不幸は蜜の味。身を挺して皆を元気づけようという心がけが大切なのだ。
 JR橋、工事中の旧国道橋をくぐって、由良宿に入る。水面から見る家並みは初めての景色だ。目の高さが違うだけで、これほど新鮮なものに感じられるとは…。
 ときおり、フネを岸につけて休んでいると、通りがかりの人が声をかけてくれた。
 「どこまで、行きなっだえ?」
 「海までです」
 そんなやりとりを繰り返しているうちに、遠くに二つの大きな橋が見えてきた。海側の橋の上をひっきりなしに車が行き交っている。
 フネのそばで、小さなボラが跳ねた。

2004年4月8日木曜日

今度は赤碕の飯盛を登(や)る〈Peak.13〉



 またまた飯盛山。東伯町では“いいもりやま”と呼んだが、赤碕町では“ええもりやま”と呼ぶらしい。いいもりやまの放送の後、「赤碕にもあるけ、一緒に登らい」という電話がかかってきた。
 電話の主は大父木地の小椋弘志さん(67)。子どものころから、茸や山菜採りでそこいらじゅうの山を歩いてきたツワモノである。
 早速地図を開いてみた。小椋さんからの情報によると、その山は赤碕町と東伯町の町境にあるらしい。飯盛と名がついているから等高線がそれらしい山を探したら・・・あった!
 地図上に名前はないが、標高は906mと書いてある。先月登った東伯の飯盛山より47m低い。でも等高線の具合は、正統派・飯盛山の形をしているようだ。
 お釈迦様の誕生日4月8日の朝8時に大父木地の親水公園で小椋さんと待ち合わせた。
 天候は曇り。前日までは雨の日が多く、決行がのびのびになっていた。でもさすがにお釈迦様はエラい。放送日前日というギリギリのところで我々を救ってくれた。
 でもギリギリはつらいのだ。下山したらすぐ編集作業が待っている。どーせなら、もっと早く助けてくれれば良かったのに・・・と思いながら車で林道へ。途中に飯盛山を展望できる場所があった。杉木立の間に山頂付近がもやって見える。
 「うーん・・・」
 なんか思っていたイメージと違う。
 なんとなく遠いのだ。正統派・飯盛山ではなく、北斎が描いた富士山みたいな形をしていることなどどうでもいい。ずいぶん遠くに見えるのだ。
 小椋さんからは「笹ヤブが多くて道はないけど、かたけ(半日)もありゃ行って帰ってこれる」と聞かされていた。約束はしていないけど、約束が違うではないか。こりゃホントにヒィーヒィー言いそうだ・・・お釈迦様の分もあわせて小椋さんに愚痴ろうと思ったけど、大人気ないのでがまんした。
◇     ◇
 矢筈川に沿うようにして林道が造られている。前日の大雨にもかかわらず、矢筈川は濁りひとつなかった。さすがである。源流部に広がる広葉樹林は能力抜群の浄水器だ。
 親水公園から車で5分ほど走って、通行不能になった。車を早く降りるということは、長く歩くことを意味する。歩くことは好きだが、初めての場所だとペース配分がわからないし、心も構えようがないから不安だ。
 「もう行けないのか」と落胆に似た気持ちをひきずりながら、杉の人工林の中を歩き始めた。飯盛山の近くまでは、けもの道みたいな山仕事の作業道が残っているという。
 杉林の中は気が滅入る。植林した当時は用材としての需要もあり、遠い将来を見越した賢者の選択だったのかもしれないが、手入れされずに放置された杉林は、財産どころか“負の遺産”になっている。
 保水力は広葉樹には遠く及ばず、花粉は最大最強のアレルゲン。間伐や枝打ちをしない林は、たった数年で一筋の光さえ差し込まず、一本の下草も生えない死の森へと変わっていく。
 千里の道も一歩から。いくら遠く感じても地道に歩を進めれば、やがて目的地に着く。途中1ヶ所だけ、ずるずる滑る急斜面の難所があったが、滑落する隊員もなく、1時間ほどで飯盛山の麓に着いた。


▲出発しておよそ1時間、飯盛山の麓に到着。
 山頂アタック前に水分補給。

◇     ◇
 やっと目指す山へのアタックが始まった。もちろん道はない。だが笹ヤブがある。雪がある。
この雪がくせものだった。“はまる”のだ。
 4月だから当然、日当たりの悪い場所にしか残っていないが、先頭を歩く小椋さんの足跡をトレースしても“はまる”のだ。
 小椋さんの体重は、たぶん60kgに満たないに違いない。でも体重差を考慮してもはまりすぎだ。地面に近いところが溶けて、空洞になっているからはまるのだが、岩の間に乗っているような雪だと確実に股間まではまって、止まった。


▲北側斜面にはまだたっぷり雪があった。腰まで埋もれた田村隊員を助ける前田隊長。

 小椋さんは「はまらん歩き方があるだ」と言っていたが、やはりそうなのだろう。
 登って、撮って、はまって、休んで・・・およそ2時間。山頂は東伯の飯盛山と同様に森林限界を超えていなかった。だから開放感はなかったが、木々の間から見える甲ヶ山は迫力たっぷり。いつもは遠くから眺めるか、実際に登るか、選択肢が二つしかない山なので、眼前に迫る山肌には新鮮味があった。


▲飯盛山山頂から見た甲ヶ山(1,338m)
 
 敢えていばらの道を行くのが隊是とはいえ、2か月続けて登山道のない急傾斜の山に登ると、フツーの山が恋しくなった。
 −−視聴者の皆さん、読者の皆さん、
 「一緒に登ろう」っていうお誘いは大歓迎ですけど、できたら道のある山にしてくださいね−−

2004年3月20日土曜日

飯盛を登る〈Peak.12〉



 飯盛山−−東伯町では「いいもりやま」と呼ぶ。他の地方では「めしもりやま」と呼ぶところもある。たぶん全国で一番多い山の名である。つまり山の佐藤さんなのだ。
 ちなみに鈴木さんは何だろう・・・鉢伏山ってのもあちこち多いぞ。ん?烏帽子山が全国にあるって話も聞いたことあるな。それとも愛宕山かな?・・・うーん困った。
 別に困らなくてもよかったけど、地図を見ていたらあることに気がついた。それは、3町には正式な名前のついた山がわずか6つしかないこと。赤碕町に甲ヶ山、勝田ヶ山、船上山。東伯町に烏ヶ山、矢筈ヶ山、そして飯盛山。気の毒だが大栄町にはない。
 ことわっておくが、ここで言う名前とは国土地理院が認めた名前である。
 「うちの裏山にはサルがいて、江戸時代から『猿山』と呼んでいるのに、名前がないとはけしからん!」などという苦情は、TCBではなく国土地理院にしてもらいたい。
 その飯盛山、標高は953m。一般にはあまり馴染みがないが、東の山裾では大山滝が落ちる、由緒正しい山なのだ。
 登山道はない。比較的傾斜の緩い北側斜面をだらだら行くか、東側の急斜面をよじ登るか二つに一つである。
 答えは初めから決まっていた。敢えていばらの道を行く−−のがヒィーヒィー登山隊の隊是である。つまり、急斜面をよじ登るのだ。
◇      ◇
 一向平方面から見た飯盛山は、どう見ても飯盛山に見えない。山頂がまるーい形ではなく、とんがっている。
 飯盛山は茶碗にご飯をきれいに盛った形でなくてはならない。誰が何と言おうと、こんもりとしていなくてはならないのだ。正しい飯盛山の姿を求めて地蔵峠からも眺めてみたが、やはりとんがったままだった。
 まあ、いい。ご飯の盛り方は人によって様々だ。ちょっと乱雑に盛ったら、あんな形にもなるだろう。まあ、こらえたる。なんて思いながら、一向平から歩き始めた。
 西向きの斜面にはかなりの残雪。川向こうの山肌には“幻の滝”が存在を誇示している。夏場以降は水が涸れてしまうから“幻”なのだが、雪解け百人力のこの時期の流れは力強い。
 お不動さんを過ぎ、鮎返りの滝の手前で足が止まった。というか、崖崩れに足を止められた。樹木ごと崩れ落ちた土砂と岩が散策道を塞ぎ、谷底へ滑って川幅を狭めていた。


▲崖崩れの現場。樹木ごと崩れ落ち、谷底まで障害物はない。足を滑らせたら間違いなく、無事ではすまない。

 毎年のことなので、ある程度想像はしていたが、今年の崩れ方はなんともひどい。崩れたら治して、崩れたら治していくのが、自然との正しい付き合い方なのだろうが、さすがに毎年となるとちょっとくたびれる。
 強固なトンネルを設置するか、吊橋への散策道のルートを変えるか、あるいは橋を架け替えるか、抜本的な対策を考える時期にきているのかもしれない。
 崩れた土砂の上を、足場を確保しながら注意深く進んだ。
◇      ◇
 3月半ばの大山滝は、少しだけ春色に染まり始めていた。滝の横をすり抜け、登山道を大休口へ向かって歩くと、谷底からミソサザイの鳴き声が上がってきた。
 不動滝の100mほど手前、岩がゴロゴロしている場所から登り始めた。樹木に遮られて上の方は見えないが、標高差にして250mほど登れば頂上に着くはずである。地蔵峠から見た時、北側斜面にはたくさんの雪が残っていたので、覚悟を決めて登り始めた。
 平均斜度はおよそ40度。何かにつかまらなければ、登ることはおろか、じっとしていることも難しい。
 岩や石はぐらぐらしているものが多く、手掛かり・足掛かりにはできなかった。ゆらりと動けば、ごろんごろんと急斜面を転げ落ちていく。
 「すぐ後ろをついてこられんぞー。いつ石が落ちるかわからんけなー」
 こんな場所は、とにかく先頭を歩くに限る。照葉樹の小さな枝や潅木をつかんでは、ヨイセヨイセと体を持ち上げた。
 イワカガミが群生していた。漢字で書くと岩鏡。丸くて光沢のある葉を鏡に見立てた名前である。登山道脇には控えめに生えているが、少し登って、ふだん人が来ない場所では“じゅうたん”という表現が決して大げさではないほど群れていた。
 花が咲くのは4月の中旬から。カメラと三脚を担いでもう一度来る価値が十分にある場所を見つけた。
◇      ◇
 登るにつれて、谷底から吹き上げる風がどんどん強くなっていった。何とかいう演歌の一節に「♪山が〜鳴く」というくだりがあったが、実際に山の上のほうにいると、鳴きながら揺れているようで少し怖かった。
 覚悟していた雪は東斜面にはなかったが、平均斜度40度で続く250mの標高差は、決して楽なものではなかった。


▲背中にザック、肩にカメラを担いで登る田村カメラマン。
 この日もいちばんヒィーヒィー言っていた。


 ゴォーッと唸り声をあげる風に混じって聞こえるヒィーヒィーという喘ぎ声(発声元はカメラマン)。休憩と撮影と休憩と登攀と休憩を繰り返しながら、 2時間かかってようやく頂上に着いた。
 ん?撮影が1回、登攀が1回、休憩が3回か・・・まぁそんなもんか!?
 標高953mの山頂は森林限界を超えておらず、木々に埋もれていた。北側には一向平が見えるが、枝がじゃまだ。
 開放感がなくては登った意味が半減する。達成感だけでは楽しめない。飯盛山の命名理由もわからない。ないないずくしは面白くない。そういうわけで今回は欲求不満。

 山の佐藤さん
 あなたのごはんは
 冷やご飯

編集部(注):日本の苗字ベスト3は、佐藤さん、鈴木さん、高橋さんです。ちなみに隊長の苗字「前田」は堂々の29位。

2004年2月25日水曜日

早春のビーチコーミング〈Peak.11〉



 2月25日午前10時、逢束海岸。大荒れの前日からちょっと回復して小荒れ。陽がさしている。
 今回のテーマは"ビーチコーミング"。番組をどう構成しようかと思案していたら、近くのおっちゃんがやってきた。
 「おー、今日はなんだいや。山に行かずに海かいや」
 ありがたや、ありがたや。ヒィーヒィー隊の番組を見てもらっている。きれいなおねーさんではなくても、こうして声をかけてもらうと嬉しい。
 おっちゃんは、八橋海岸に比べて、逢束海岸は冷遇されているとこぼした。
 「砂浜をちょいとブルでならして、シャワーをこさえりゃ、八橋なんか足元にも及ばん海水浴場になるになぁ。船着場はちゃんと浚渫(しゅんせつ)せないけん。あっちこっちに必要ない波止を造ったり、テトラをどかどか沈めたりするけ、潮の流れが変わって砂が溜まったりするだーな」
 おっちゃんはそう言うと、沖を眺めながらため息を一つだけついて帰っていった。
◇      ◇
 ビーチコーミングのビーチはもちろん浜辺。コーミングは櫛のコーム(comb)にing。櫛でとかすように砂浜を探索することを言う。現金はたまにしか落ちていないかもしれないが、とくに荒れた日の翌日などは、様々なお宝が打ち上げられている。
 とは言っても、誰もが価値を認める物はほとんどなく、マニアックな収集家か、ビーチコーミングそのものに楽しさを見出すことのできる人でなければ歩いてもつまらない。
 最初に目にとまったのは、十数メートルもある松の木だった。先程のおっちゃんによれば、以前逢束海岸に流れ着いて、砂に埋まっていたものが、時化(しけ)でまた全貌を現したらしい。
 くねくね曲がっているから、海岸の岩場に生えていたのかもしれない。その場所はおそらく韓国。いや、北朝鮮かも…なーんて思いを巡らすのもビーチコーミングの楽しみの一つだ。
 くねくね松に別れを告げ、東に向かって歩くとすぐ黒っぽい鳥の死体があった。死体があれば捜査するのが世の常である。
 大きさはカラスほど。色も黒。ということでガイシャの身元を『カラス』と特定しようとしていたら、谷口隊員が足指の間の水掻きを目ざとく見つけた。さすが日本野鳥の会会員である。
 さっそく図鑑を取り出して鳥の特徴をチェック。なんとクチバシに突起がある。すぐに身元が割れた。『ウトウ(善知鳥)』と呼ばれる海鳥だ。はっきりした死因は不明だが、ここらあたりの海岸にも漂着していた廃油が原因なのかもしれなかった。油が浮いていれば、そこの部分だけ海面が穏やかになり、海鳥は勘違いして羽を休めに降りる。そうして体が油まみれになって死んでしまうのだ。


▲海岸に打ち上げられていた海鳥の死体。ウミスズメの仲間、ウトウ。くちばしの上の突起と顔の飾り羽が目立つ。

 鳥=命の谷口隊員にとって、海鳥が死んでいるのは悲しい出来事のはずなのに、なぜか表情が妙に輝いている。持参のデジカメでガイシャの写真をパチリ。角度を変えてパチリ。そういえば、去年の夏に山川谷の滝を探しに行ったとき、山道の脇にアカゲラの羽と頭蓋骨を見つけて、妙に喜んでいたことがあった。
 そのときのことを彼は、自分が編集発行人となっている《下を向いて歩こう》というミニコミ紙の中で、「新しい滝を見つけたことよりも、アカゲラの頭蓋骨を手に入れたことの方が嬉しかった」と書いていた。
 なんともまぁ、ここまでくれば何も言うことはない。今回も死体を持って帰りたそうだったが、その場では何とか思いとどまった。でも、取材が終わった後のことは誰も知らない。
 ちなみに鳥の死体はもう一つあった。こちらも海鳥で、図鑑を調べると『ヒメウ(姫鵜)』。鵜はなんとなくずる賢いイメージがあるが、死してなお艶やかな緑黒色には、高貴な雰囲気さえ感じられた。同じ死ぬならこうありたいものである。
◇      ◇
 浜辺には細かくちぎれた葦、魚をとる罠やロープなどの漁具、そして大小様々のペットボトルと空き缶が散乱していた。葦はゴミではないからいいとして、漁具は何と説明したらいいのだろう。すべて韓国や北朝鮮で捨てられたものだと信じたいが、たぶんそうではない。
 むろん全部が捨てられたわけではなく、操業中に破損したり流失したりしたものもあるに違いない。しかし、それにしても・・・である。


▲打ち上げられていた漂着物。葦や流木以外に、ペットボトル、サンダルなどのゴミも多い。

 ペットボトルのラベルにはハングルがあふれていた。中味はすべて濃度3.5%の塩水に統一されているかと思いきや、しっかり色つきの液体が入ったままのものも。でも、さすがに飲んでみる勇気はなかった。
 なんとホイールつきのタイヤまであった。これまたMADE IN KOREA。一度抗議に出向いて、ヒィーヒィー言わしたらないけんかいなぁ。風や海流他もろもろの影響で韓国のゴミが日本に流れてくるのはわかる。でも、ゴミを海や川に捨てるのは別の次元の話である。近頃、自動車や電化製品など韓国製が増えているが、ゴミまで輸出して欲しくない。
 防波堤から東に1kmほど往復して、砂浜に下りる石段に座っていたら、先程とは別のおっちゃんがやってきてひとしきり話し込んでいった。昔歩いた山川谷の山桜の話。海草が不作だという話。流木の話その他あれこれ。
 人生の先輩から山や海の話を聞くのはとても興味深い。でも、必ずと言っていいほど出てくるのは、この半世紀中に行われた自然破壊を嘆く声である。それには、自分自身が知らず知らずのうちに加担してきた破壊に対する自戒が込められている場合もある。
 川や海にゴミを捨てるのも立派な自然破壊である。逢束海岸のゴミには確かにハングルが多かったが、普段見慣れないから目立つだけで、割合は圧倒的に国産が多いのだ。

2004年1月26日月曜日

厳寒の大山滝へ〈Peak.10〉



 雪の大山滝は、何年も前から行きたいと思っていた。これまで写真は見たことがあったが、ビデオカメラの映像は見たことがなかった。むろん何もせずに手をこまねいていたわけではない。何回かチャレンジはした。でも、2m近い積雪と、吊橋手前の"谷底滑落即死亡型なだれ"に行く手を阻まれ続けてきたのだ。
 いわくつきのなだれは"型"付きである。カタがつくとなんだって怖いのだ。あの鳥インフルエンザだってH型。借金のカタに内臓を売らされたという話もよく(?)聞く。リストラの肩たたきにも遭いたくない。ボブ・サップにかけられる片エビ固めなんかは死ぬほど痛いだろう。何がなんだかわからなくなってきたが、とにかくカタがくっつくと怖いのだ。
 でも、いつも途中で断念していてはTCBの名がすたる。我々ヒィーヒィー隊がきっちりカタをつけなくては。
 ということで決行日は1月26日。今回は久しぶりに全員が揃った。実に去年6月の烏ヶ山登山以来だ。隊員勢ぞろいを祝福するかのように青空が歓迎してくれた。というか、これまで浜本隊員が参加したときはいつも晴れている。自分が参加できないのを逆恨みして、雨ガエルを殺したりするから天気が悪くなるのだ。
 一向平の畜産団地に車を置かせてもらい、その場で西洋かんじき・スノーシューを履いた。長円形のアルミのフレームに、すべり止めの歯がついている。使い勝手がいいから、年々人気が高まっているようだ。和かんじきとの一番の違いは、かかとが上がることだろう。
 畜産団地付近の積雪は1mあまり。前日まで低温が続いていたので、雪面から30 ほどはさらさらのパウダースノー。ということは、いくらスノーシューでも「はまる」のだ。ということは、先頭を歩くと「えらい」のだ。というわけで、一向平管理棟までの約1 は朝倉シェルパ隊長が栄誉あるラッセル隊長も兼務した。
◇      ◇
 一向平管理棟の温度計は摂氏零度だった。陽が当たり、風がないので思ったより暖かく感じる。あちこちにキツネとタヌキの足跡。中国自然歩道の案内看板が雪に埋もれている。
 午前10時、いよいよ大山滝へ出発。キャンプ場の中をショートカットして歩けるのも、この時期ならではだ。
 積雪は1m以上あるのは確実だが、思ったより、なだれの度合いが少ない。これまでの経験だと、山の西側斜面に切られた散策道は、どこが道だかわからないほどなだれていたのに、今回は楽に判別できた。
 スノーシューを履いているので、とくに道の部分を歩く必要はないのだが、ついつい道を探してしまうのは、サラリーマンの悲しい性か。
 お不動さんの脇をすり抜け、杉林を過ぎるといよいよ例の"谷底滑落即死亡型なだれ"が待ち受ける危険ゾーンに入った。
 先頭は谷口隊員。本業の仕事が忙しく、昼前にはこの隊を離脱するため、つらいラッセル役を買って出た。大山滝まで行けるのなら苦労が報われることになるが、昼前までということは、どう考えても吊橋まで。損な役回りだが仕方ない。こうした尊い犠牲の上に、素晴らしい成果が生まれるのだ。
 谷底に滑落しないように、足場を一歩一歩固めながら進む。なだれた斜面の傾斜は約50度。山側が極端に高く、スノーシューがひっかかってなんとも歩きにくい。
 案の定、朝倉シェルパ隊長が転倒した。なんともあっさり"転倒"で片付けたが、詳しく書いたら、消防署他各救助関係方面からお叱りがくるから、転倒した、のだ。
 この転倒に気がついたのは後ろを歩いていた田村カメラマン。彼はしっかりカメラを回していた。さすがである。でも放送では使えない。お叱りがくる、のだ。
 鮎返りの滝からは、なだれがさらに厳しくなった。足場を固めるための一歩を踏み出すのが難しく、まずスコップで進路を確定させてから左足を踏み出さねばならなかった。
 一歩、また一歩。地道な作業は隊列を少しずつ着実に吊橋に近づけていく。谷口隊員はとっても忙しく、ヒィーヒィー喘いでつらそうだが、他の隊員はヒマなことこの上ない。田村カメラマンは、谷口隊員の奮闘を上から撮ろうと、なだれた雪崖をごそごそしている。
−−そんなことしたら危ないけ、ルートをスコップでつくりよるんだろうが。谷口隊員の立つ瀬がないではないか−−
 結局、谷口隊員は吊橋の手前でリタイア。律儀に「早退します」と宣言して帰っていった。
◇      ◇
 大山滝に着いたのは12時30分。撮影の時間を考えても2時間半はあんまりだ。雪がなければ30分の道のり。いかに雪がすごかったかがわかる。
 さっそく滝つぼへ。これも詳しく書くと救助関係方面からお叱りがくるので、滑るように下りた、ということにしておく。
 間近で見る雪の大山滝。この時期は、小さな支流が雪で埋もれるため水量が少なくなる。でも二段に分けて崩れ落ちる美しさはいつも通りだ。


▲厳冬の大山滝。まるで水墨画の世界だ。

 滝つぼの水をすくって湯を沸かし、昼飯をつくった。
 雪の圧倒的な白さと明るさが色彩のない世界をつくりだしている。人の侵入をずっと拒み続けてきた厳寒の名瀑は、水墨画の中を落ちているようにも見えた。


▲滝の周囲にはたくさんのつららが垂れ下がっていた。寒さを忘れ、カメラを回すカメラマンの田村隊員。

対談!反省と今後の活動目標〈Peak.9〉

 昨年の4月に結成した中年ヒィーヒィー登山隊。この2月で記念すべき第10回の番組放映となる。そこで、東伯町の某飲食店に集合し、これまでの活動を振り返っての反省と今後の活動目標を話し合った。


▲加勢蛇川の川原でキャンプ。朝起きると、テントの屋根が吹き飛んでいた
 
「地獄で死ぬなら面倒がない!」(浜本)

前田 また浜ちゃんが来とらんなぁ。朝倉くんは仕事で遅れるし、とりあえず始めとらーか。えーっと第1回目から。初登山の4月は地獄谷の雪渓と野田滝を撮影しに行ったなあ。
谷口 雪がものすごかった。大山滝あたりまではほとんどなかったけど、大休口のあるヒノキ林から極端に増えて・・・。
田村 地獄谷へ下りる道も、どこがどこだかわからずに、崖にへばりついて恐る恐る。機材は重いし…。
谷口 下りた所は6号えん堤。本当ならあそこで引き返すはずだった。
前田 ほんと。雪はなだれてるし、水量は多いし。歩くルートがなかったもんなあ。
田村 良識あるヤツはみんな「引き返した方がいい」と思ってたはずだけど、一人だけ違うヤツがいた。
谷口 そうそう。
前田 浜ちゃんが「やめるのはいつでもできる。地獄で死ぬなら面倒がなくていい」と。あの軟弱浜ちゃんらしからぬ発言。だけどあの一言が、それ以降のヒィーヒィー隊の活動を方向づけたような気がする。
谷口 多少のムチャは当たり前になった。
前田 出席率が悪くて隊員の中じゃ落ちこぼれ組だけど、初回だけは"ええ仕事"したのかなあ。

「ロープ一本張ればいい」(前田)

谷口 5月の矢筈ヶ山へのバードウオッチングの時に初めて山に泊まったかいなあ?
田村 テントじゃなくって大休峠の非難小屋だったけど…でも寒かった。中旬なのに、朝は3度しかない。
谷口 で、6月は鏡ヶ成のキャンプ場でテント泊。車がすぐそばまで着くから、酒も食料もたっぷりあって、結構遅くまで飲んだのかな?僕はいつも10時就寝を守ってるから、後のことはわからんけど。
前田 俺あの時はほんとにえらかった。きびしい二日酔いで、烏ヶ山に登る途中で腹は痛くなるし…。
谷口 だいたい、二日酔いで登るような山とは違うでえ。元気な時でもえらいのに。
田村 烏ヶ山はとても人気があって、登山禁止になっても登る人が大勢いるのに、なぜ、行政が2年以上も放置しているのか、そのことを番組で問いたかった。


▲烏ケ山

前田 登山道の本格的な修復に多額の費用がかかるのはわかるけど、所詮、山は山。何も元通りにする必要はない。多くの登山者がいることを承知しながらも、"登山禁止"を大義名分のように振りかざして…。、補助ロープ1本張れば安全になる所を何もせずに放置していることが問題だ。

「滝みつけました!」(朝倉)

田村 7月は三本杉の奥の山川谷で新しい滝を見つけようとしたんだけど、何回も雨に降られて、結局は8月になった。
前田 距離が短いとバカにしてたら、なんともきつかった。
谷口 そうそう。三本杉滝を巻くとき、ほぼ垂直の崖をよじ登らんといけんようになって、怖くて死ぬかと思った。
前田 俺は、飯盛滝を探して沢を2時間も歩いたことの方がきつかったなあ。地図を見ると、すぐそこにあるはずなのに、いくら歩いても滝が現れない。
田村 結局は、心身ともにへばった正隊員たちを残して、朝倉くんが1人で沢を上って見つけてきた。
前田 浜ちゃんは、ほとんど役にたっとらんけど、シェルパ隊長の貢献は大きい。今度から今ばやりの先遣隊長に格上げしようかな。

?うわさをすれば 浜本隊員到着。

「やらせじゃないゾ!」(谷口)

浜本 すいませーん。コーラをジョッキでくださーい。
ところで"登山隊"といいながら、ここまで水がらみの活動が多かったですよね。
前田 ん!?そうかいなぁ。地獄谷、山川谷、四万十、加勢蛇…そういえば8回のうち半分は川だな。
浜本 川といえば、四万十川、面白かったですよね。
谷口 ほんと面白かった。とくにカヌーはやみつきになりそう。
田村 カヌーもそうだけど、ペットボトルでつくったエビのわな、セルビンって言ったかいな、あれが面白かった。
浜本 あんな簡単な仕掛けで魚やエビが入るもんなー。
田村 あれはやらせか?という質問が何件かあったけど、やらせで、あんな無邪気な笑顔は出ませんよ!
谷口 それにやらせならマイクだって風防付のガンマイクをちゃんと使ってるしね。いかに四万十が豊かな川かってことですよね。
前田 川原にテント張って、同じ場所で二泊したんだけど、一週間くらいおりたかったなぁ。
谷口 風体の怪しいおっさんたちが4人、川原で寝泊りしてたら、こっちならすぐ警察が来そうだけど、四万十ではなんてことはない。あちこちでキャンプしてるから当たり前の景色になってて、地元の人たちも、別に気にもとめんみたい。

ここで、朝倉シェルパ隊長も合流し、ようやく全員集合

「地元あってのヒィーヒィー隊」(田村)

田村 朝倉くん。もうまとめないけんだけど何か言うことないか。
朝倉 去年は四万十の時に、僕は東伯町駅伝で行けなかったですけどね、今年県外に行くことがあったら僕も連れていってくださいよ。なんか、屋久島だとか白神山地だとか韓国のソラク山だとか、色んな話が耳に入ってきてるんですけど…。
前田 まあね。浜ちゃんが来んのは別に構わんけど、朝倉くんが来んと、荷物が重くてヒィーヒィー言わないけんし。
浜本 またそんなこと言う。僕だって、本業があるんですから。今年はちゃんと出ますよ。
谷口 でもね、今年も地元の自然にこだわって色んな視点から番組をつくっていきたいですよね。
田村 そう。県外に出るにしても、そのことが地元で活かせるような番組作らんとねェ。 
前田 なんだか知らん間にまとまったんかな。すいませーん。焼酎の湯割り、ジョッキでくださーい。