2007年11月14日水曜日

にっぽんの秋をさがして…〈Peak.54〉



♪秋の夕日に照る山もみじ

 
濃いも薄いも数ある中に——♪

 にっぽんの秋の歌『もみじ』。小学生の頃、紅葉シーズンになると毎年朝礼でこの歌の合唱練習をさせられたっけ。曲の途中でハモりがあったりしてなかなかうっとうしかった。でも練習がイヤだっただけで、歌自体はとっても美しい歌詞で好きだった。
 そんな照る山もみじが近年まるできれいじゃない。紅葉も黄葉も枯れたような感じで、今ひとつどころか二つも三つも鮮やかさが足りないのだ。原因は地球温暖化だの酸性雨だの言われているが、地球規模の様々な環境悪化が原因であることは間違いない。
 黄葉は黄色い葉限定の紅葉で、こちらも“こうよう”と読む。紅葉は紅い葉限定の場合もあるが黄葉を含んだ総合的な紅葉をいう場合の方が多い。う〜ん、ややこしい。
 ややこしついでに色変化のメカニズムにも触れておくかな。紫外線によって細胞の液胞中のアントシアニンが増し、葉緑素が分解するのが紅葉。一方黄葉は、葉緑素が分解し、カロチノイド(黄色色素)が残るために起こる。
 で、今回の番組は、局地的でもいいから「あ〜きれいだ」と思える紅葉を求めて一向平から大山滝・大休口方面へ向かった。
 大山山系の場合、以前は文化の日前後が紅葉の“見ごろ”だったが、近年はピークがなく五月雨式に色づいてさっさと散ってしまう。大山滝に向かう道沿いには11月の半ばだというのにまだ色づいていないカエデ類があちこちに見られた。

◇      ◇

 局地的にもきれいな紅葉がないことがわかると、番組内容は急速に『キノコ』に傾いていった。この時期食べておいしい深山のキノコといえばナメコとムキタケ。それらを探しながら目についた珍種キノコも撮影することにした。
 久しぶりに参加したスエイシー隊員が愛犬フラッフィーを連れてきていた。一度も食ったことはないが、値段の高い美味キノコとして有名なトリュフは、専門の探索犬・豚がいるので、フラッフィーを初代ナメコ犬に任命しようとしたが、本人(犬)にまったくヤル気がなさそうだったのであきらめた。
 フラッフィーにはヤル気がなくても、キノコとなるとガ然ヤル気を見せるのが自称キノコ博士・田村隊員である。彼の愛読書はヤマケイのキノコ図鑑。とは言っても机上の知識だけではない。大きな声では言えないけど、何回か食中毒を経験している突撃派の自称博士なのだ。

 珍種その1は『スッポンタケ』。

【スッポンタケ】黒っぽい部分がヌルヌルしている

名前の通りスッポンがニョロ〜っと首を出したような姿をしている。
 先の黒っぽい部分はヌルヌルして臭い。臭いにもかかわらず案外美味なようで、ヌルヌルを洗い流し、ゆがいて水にさらしてから中華風スープの材料として使うという。
 何もわざわざ臭いものを食わんでも、とは思うけど中華食材として高名なキヌガサタケも同じように臭いヌルヌルが付いているそうだから仕方ないかな。

 珍種その2は『ツチグリ』。

【ツチグリ】とてもキノコには見えない

 これのどこがキノコ?というような姿をしているが、れっきとしたニセショウロ目のキノコ。なんと、湿度の低い時は花びらみたいな部分を閉じ、高いときは開く性質を持っていて『キノコの晴雨計』と呼ばれているという。臭いやつもあれば賢いやつもいるんだなぁ・・・。

 美味いやつの話もせねば。山をごそごそして探したのはムキタケ。このあたりでは『ボタヒラ』ともいう。傘全体になんとも言えない質感があり、ぼて〜っとしたヒラタケだからそう呼ばれているのかな。傘の皮が簡単にむけるからムキタケと名づけられている。
 もう一つの美味いやつはナメコ。

【ナメコ】天然ものは大きく育つ

 スーパーに売ってあるのは菌床栽培のものが多く、小指の先ほどの大きさの時に摘み取られているけど、広葉樹の朽木に生える天然ものは、放っておくと傘が10センチ近くの大きさになる。大きくなっても風味は変わらず、もちろん食い応えは比べようがない。見た目の美しささえガマンすれば、大きいことはいいことだ♪っと。
 ムキタケとナメコは昼飯に。谷川で洗って、谷川の水で味噌汁をつくった。

◇      ◇

 それにしても近年は深山だけでなく里山もめっきり色づきが悪くなった。昔はイッポンシメジがたくさん生えていた雑木林も荒れ放題で、足を踏み入れることさえためらわれるような山が多い。
 健全な森林は、樹木の高さが高・中・低と層になっていて日当たりが良いが、歩く隙間のないような雑木林はやはり病んでいて、紅葉すら満足にできないのだろう。
 『もみじ』は次のように歌詞を結んでいる。
 ♪赤や黄色の色さまざまに
    水の上にも織る錦♪
 同じ赤でも濃いの薄いの、エンジっぽいのオレンジっぽいのと様々。赤も黄色も樹ごとに色を変え山肌を彩る。その間にはまるで意図したかのように常緑樹のあざやかな緑が配置され、にっぽんの秋はなんとも繊細で、みやびな色模様を描き出す。
 錦秋=きんしゅう。
 こんな美しい言葉で表わされる秋は、もう永久に戻ってこないのかなぁ・・・。

2007年10月20日土曜日

北栄の名峰? 茶臼山〈Peak.53〉


 10月に入ってやっと過ごしやすくなってきたので、北栄町の山に登ることにした。登山隊だから山に登るのは当たり前と思うなかれ。中年で体がかなり弱ってきているから、汗だらだらの登山はしたくないのだ。
 目的地は茶臼山。ん?どこにある山?と首をかしげる人も多いと思うけど北条にある。標高は恥ずかしながら94m。940mではない。れっきとした94mである。しかも国土地理院の25000分の1地図に名称が記載されている家柄(山柄?)の良い山なのだ。
 北栄町には正式に名前のついた山が二つしかない。もう一つは蜘ヶ家山(くもがいやま=曲)。こちらは標高177mだけど、簡単に頂上まで車で行けてしまう。だからアタックに値する山は茶臼山しかないのだ。
 でもなぁ、たった94mかぁ。こんな山に登った番組つくったら非難ゴウゴウだよなぁ・・・なんて思いながら茶臼山のことを色々調べていたら、なんと茶臼山は“山の佐藤さん”であることがわかった。日本で一番多い山の名前で、なんと全国各地に200以上もあるという。以前、飯盛山のことを“山の佐藤さん”と呼んだような記憶があるけどそんなことはどうでもいい。飯盛山は“高橋さん”に変更しよう。
 でも94mなら山じゃなくって丘だよなぁ・・・とも思いながら、山の定義&丘の定義を調べたら「低い山を丘という」としか書いてなかったからノープロブレム。さらに北条出身の浜本隊員によれば、北条幼稚園・北条小学校・北条中学校の校歌にはすべて茶臼山が登場するという。ならば一度は登らねばなるまい。というわけで今回は茶臼山なのだ。
◇      ◇
 「茶臼山の全体像を見るなら蜘ヶ家山ですよ」と谷口隊員が言うので車を走らせた。蜘ヶ家山には『山菜の里』なんて看板があり、山菜の生息地にはご丁寧にワラビやウド、ツワブキなどの表示板が立てられていた。春になったら早い者勝ちで採るのかなぁと思っていたら、どうやら「採取してはならぬ」らしい。採れない山菜なんて雑草と同じだがな。

【山頂から南側を望む】

 谷口隊員の言う通り、蜘ヶ家山の山頂からは茶臼山がみごとに俯瞰できた。茶臼とは当然、茶葉を粉(抹茶)にする石臼のことだろうから、山の形状を見ながら「どこが茶臼だら〜か?」と一生懸命考えたけどわからなかった。
 北条歴史民族資料館の某担当者によれば、その昔、近在でお茶をつくっていたから茶臼山と名づけられたという。なら『茶摘山』とか『茶畑山』にすればいいのに、とは思ったけど茶臼山でもいっこうに差し支えないから深くは考えないことにしよう。
 ところで全国的に一番有名な茶臼山は、大阪・天王寺にあるヤツかな。なぜ有名かと言えば『大阪冬の陣・夏の陣』の舞台になったから。今をさかのぼること400年ほど前、1614年ないし1615年のこと、徳川家康は天王寺の茶臼山に陣を構え、敵対する勢力を一掃し、なが〜い徳川時代をスタートさせたのだった、かな?
 聞けば、北条の茶臼山にも城跡らしきものが残っているという。きっと戦国時代には要害の山として重宝されたのだろう。
◇      ◇
 そうそう茶臼山に登らねば。
 低いから急がなくてもいいのだけれど、まずは北条小学校前の歩道橋を渡って、山にとりついた。

【歩道橋が登山道入り口】

 5合目あたりまでは獣道みたいな登山道があった。道の両脇にはツワブキが菊に似た黄色の花を咲かせていた。
 5合目を過ぎると踏み跡の代わりに、くっつき植物とトゲトゲ植物が登場した。空中には数十匹の大きな女郎グモが、ちょっとやそっとでは切れない丈夫な糸であちらこちらに網を張りめぐらしていた。
 尾根筋にはたくさんの古墳があった。松の切り株もたくさんあった。マツクイムシで枯れ、数年前に切り倒されたという。山全体に落葉広葉樹&照葉樹がバランスよく配置されているから、以前は食用キノコ類が豊富に生えていたに違いない。

【ツワブキの花】

 山頂からは、木々の間から周囲の景色がまばらに見えた。道も山頂も、も少し整備すればいいのだろうけど、たくさんの地権者が存在する私有地らしいからそれも叶わない。
 ほんの20分もあれば山頂に立てる茶臼山。お手軽・お気軽なプチ登山にはもってこい。のはずなんだけど、ちょっとなぁ・・・。頭には蜘イギがいっぱいつくし、ふくらはぎの辺はトゲトゲにやられて痛いし、茶臼山には悪いけど、秋らしくもすこし爽やかな山にならんと、もう登る気がせんなぁ・・・。

2007年9月15日土曜日

温故知新 大山滝へ…〈Peak.52〉


秋と言えばキノコ、キノコといえば田村キノコ博士!

 大山滝は1990年に『日本の滝百選』に選定された。当時の環境庁と林野庁の後援で、緑化関係団体などによって日本の滝選考会がつくられ、日本各地から応募のあった517の滝の中から100瀑が選ばれたという。県内では他に雨滝(あめだき=鳥取市)も選ばれている。
 選定の基準はわからない。でも大山滝は、二段になって落ちるさまが、なんというか端麗なんだな。
 最近は発泡酒の影響で“淡麗”と間違えそうだけど、端麗とは形・姿が整っていて麗しいこと。う〜ん、まさにその通りで、大山滝はやっぱり端麗なんだな。ん?なんだか山下清みたいだな。
 山下清が大山滝を訪れたことがある、という話は聞いたことがないけど、所在地は琴浦町野井倉字一向平。番地は不明。キャンプ場とほぼ同じレベルらしいから標高は570mほど。
 ところでその大山滝とか一向平周辺で、あまり地元の人を見ないよなぁ、という何気ない会話が今回の番組のきっかけになった。
 僕の場合、この番組のロケに加えて、『らくらく山歩会』やプライベートの山行で、たぶん年に10回くらいは一向平・大山滝ルートを歩く。
 歩けば色々な人とすれちがう。多いのは若いカップル。狭い道を手をつないだりしてニコニコやってくる。最近では犬を連れた人が増えてきた。猫はまだ見たことがない。そして、知った顔にはホントに遭わないのだ。
◇      ◇
 山歩きの良いところは色々あるけど、お金を使わなくてすむこともその一つ。本格的な登山は別として、森林浴的な山歩きだとほとんどお金はかからない。でも今の日本では、『楽しさは金で買うもの』という考え方が蔓延している。知らず知らずのうちに『金がかかるものほど楽しいはず』と思い込まされてしまっているのだ。
 そんな社会に誰がした?な〜んてグチっても始まらない。でも、今のままでいいはずもない。とりあえず自分の子どもに“お金より大切なもの”をどれだけたくさん教えられるか、今そしてこれからの親の役目はこのことにつきるんじゃないかなぁ・・・。
 いかん。山の話に戻ろう。
 せっかく琴浦町には素晴らしい山があるのだから、みんながその恩恵を受ければいいのにと思うのだけれど、町民全員に山に入られても困るから、個人的には放っておきたい気持ちもある。


いざ出発(一向平管理棟)

 それはともかく、なにはともあれ一向平から大山滝までじっくり歩いてみることにした。

登山道の脇にひっそりと佇む「ヤマホトトギス」


なんじゃ、この木?


このあとすばりが刺さるとも知らず棘をつつく谷口隊員

 登山道のルート変更により、以前より距離が若干延びて片道およそ2キロ。吊橋手前の『恐怖の445階段』の出現により、行きはよいよい帰りはこわくなってしまった。さらっと歩いて、行きは40分、帰りは50分の道のりである。
 さてその“恐怖の445階段”の話をせねば。
 有名牛丼屋さんの昔のキャッチコピーに『はやい、うまい、安い』っていうのがあったけど、この階段は『狭い①、狭い②、急だ』で言い尽くされる。狭い①はいわゆる道幅のこと。狭い②は踏み幅のこと。狭いところは20cmほどしかない。


あれ、今、何段でしたっけ隊長?

 断っておくけど工事業者を責めているのではない。たぶんそうせざるを得ない立地等複雑工事条件があったからあーゆー階段になったのだろう。
 で、段数が445もあって、行きは下りだからホイホイ下りれるけど、帰りは中年ならずとも盛大にヒィーヒィー喘いでしまう。当然所要時間も帰りの方が10分よけいにかかることになってしまうのだ。
 ともあれ『百聞は一見にしかず』。一度歩いてみれば全てがわかる。
◇      ◇
 階段を下りれば吊橋。昭和52年に造られたこの橋は今年12月で満30歳を迎える。


吊り橋の上でしばし談笑

 その吊橋を渡り、ちょいと右手に寄り道すれば『鮎返りの滝』がある。なんとも美しいネーミングだけど、ここまで鮎が上ってきていたのは、たぶん加勢蛇川にコンクリートえん堤が一つもなかった昭和の初め頃までだろう。


鮎返しの滝

 本道へ返って、けっこうな急坂を上り切ると『旦那小屋跡』。ここはその昔、たたら師(和鉄製錬職人)が住んでいたそうな。何でたたら師が旦那なのかよくわからないが、この周辺には『金クソ(和鉄製錬後のカス)』が転がっているので、拾って当時に思いを馳せてみるのも面白い。


ズッシリと重い「金クソ」


イタヤカエデとサワグルミの種が絨毯を敷き詰めたように落ちています

 ミズナラやイタヤカエデ、サワグルミなどの巨木ゾーンを過ぎると今度は『木地屋敷跡』。木道を上ると大山道の盛衰を見続けてきた『一丁地蔵』が鎮座ましましている。


一丁地蔵

 大山道の一丁地蔵は江戸末期に作られたものが多く、どれも風化が激しくて顔の部分が完全に欠けてしまっているものが多いが、ここの地蔵様はヒノキの林に守られてきたせいか、端正な顔立ちをうかがい知ることができる。
 さあ大山滝が見えてきた。この滝は、ちょっと眺める位置を変えるだけで、随分違う印象を与えてくれる。
 まずは、汗を拭き拭き一番上から覗き込むように。次は少し下にある展望台に下りよう。3つ目のポイントは、さらに下ってブナの木のそばへ。ここからは正統派大山滝をドーンと見ることができる。


正当派大山滝

 そして最後はやはり鎖をつたって滝つぼへ下りなければ。今は道が整備されて、以前より格段に下りやすくなっているから、ぜひチャレンジしてほしい。


鎖をつたって滝壺へ降りる

 なんだか、安物ガイドブックみたいになってしまったなぁ・・・。9月も下旬だというのに真夏並みに暑いし、仕方ないから終わるかな。


滝壺で昼食タ〜イム

2007年8月21日火曜日

夏の地獄は実は天国…〈Peak.51〉



 この中年ヒィーヒィー登山隊は、2003年の春に産声をあげた。そして、その記念すべき1回目の活動では、4月になってもなお深い雪渓を残している琴浦町の秘境『地獄谷』を歩いた。
 地獄谷とは、大山滝から加勢蛇川源流部の駒鳥小屋下あたりまでの渓谷(約5km)のことを言う。ネーミングの由来は定かではないが、深く狭い谷に重なる岩また岩の荒々しい様子が地獄にたとえられたのかもしれない。
 第1回目の活動以来4年と4ヶ月。なんと登山隊としては、一度も本格的にその秘境を歩いていないことに気がついた。聞けば、釣り好きの小前隊員は一度も行ったことがないと言う。
 夏の沢のぼりはとても気持ちがいいし、崩落して不通だった大山道(だいせんみち=中国自然歩道)も開通した。「ならば行くしかない」ということで、今回は久々に地獄谷を歩くことにした。



 一向平から大山道を40分ほど歩けば大山滝。そしてさらに30分ほど歩けば、大正時代に植えられたという立派なヒノキ林の中に『大休口(おおやすみぐち)』と書かれた看板が現れる。



 ここは、大休峠への登り口であると同時に、地獄谷へ下りる分岐点にも当たる。川原へは徒歩10分。久しぶりの秘境にワクワクしながら汗だくになって6号えん堤に下り着いた。

◇      ◇

 浜本隊員持参の温度計によれば水温は18度。この時期、加勢蛇川の中・下流では30度近くあって、緑色藻のアンドロ(アオミドロ)が繁殖している。水温差は実に10度以上。手を浸けると、じ〜んと感激するくらい冷たいのだ。もちろん流れの上を吹き抜ける風もひや〜っとして、汗を一気に蒸発させてくれた。さすが秘境である。



 そうそう浜本隊員がなぜ温度計を持っているのかといえば、水温によってフライ(釣り)に使う虫の疑似餌が違ってくるからなのだそうな。ま、1匹釣り上げてからじゃないと、どんな“かしこげ”なことを言っても説得力はないから、とりあえず「あ、そう」と軽く受け流しておいた。
 というわけで、今年の春に続いて、今回も小前隊員vs浜本隊員=ルアーvsフライの釣り対決が幕を開けることになった。ターゲットは岩魚。これまでの実績からして、戦わずとも結果は見えているような気がしないでもないけど、とりあえず浜本隊員にも名誉挽回のチャンスだけは与えねばならない。水と岩と緑が織り成す渓谷美を撮影しながら、野田滝まで釣り上がる二人の後を追いかけていくことにした。



 久しぶりの地獄谷は、相変わらず水はどこまでも透明で、少し深いところはちゃんと水色に染まる元祖清流正統派。20日以上も雨が降らず川底が洗われていないはずなのに、砂も石も白いのが何とも嬉しかった。





◇      ◇

 目的地の野田滝までは2kmほどの道のりというか川のり。その途中にある大休滝の姿が、成長した木々に隠れて、ほとんど見えなくなってしまっていた。ま、枝葉が一番繁茂する時期だから仕方ないのかな。
 でも野田滝は、さすが地獄谷一の名瀑と称されるだけあって、水量こそ少なめだったものの、相変わらず優雅な姿を見せてくれた。



 最上部から流れ落ちた水が岩に当たってはじけ、まるで水のカーテンのように幅を広げて崩れていく。男性的な大山滝とは対照的に、野田滝は女性らしいたおやかさを備えている。
 地獄谷の名物?ニホンヒキガエルも、色違いで2匹現われ、僕たちの久しぶりの訪問を歓迎してくれた。



 ふいに『ゲコ』と石の間から出てくるのだけれど、保護色というか何というか、隠れていた石と同じ色をしているのだから面白い。



 そうそう釣り対決は予想通り小前隊員の完勝だった。釣果は20cm前後の岩魚2匹とささやかだが、なぜか完勝なのだ。



 「フライはデリケートな釣りだから」と、竿をビュンビュン振りながら一番先に進んで行った浜本隊員の弁によれば「2、3度バラした」そうだが、釣果ゼロに弁解の余地はない。
 ちなみに小前隊員の使用ルアーは、赤色&金色がメインの鰯の形をしたヤツ。やっぱり“ざいご”の岩魚は、いつも食っている地味な虫よりも、けばけばしいド派手女みたいなエサに目がくらんでしまうのかなぁ…。 
 わかるような気もするけど、なんだかなぁ…。

2007年7月17日火曜日

謎の巻貝の正体は・・・〈Peak.50〉



 先月の勝田川ロケの時、持久橋(箆津)の下手で、丸っこい巻貝を見つけた。『見つけた』と書くと、1個かと思われそうだけど、見える範囲だけでもたぶん数千個はいたかな。
 僕は加勢蛇川の流域の村で生育したから、それなりに川の生き物のことは大体わかっていると思っていたのに、なんとまぁ初めて見る貝だった。やっぱり大体は大体なのだ。
 加勢蛇川と勝田川、いくら別の川とはいえ、まったく見たことのない貝が生息していたのにはビックリした。
 もちろん名称などわかるわけがない。持久橋の近くに住んでいる人たちにも聞いてみたけど、返ってきたのは「初めて見る」という言葉ばかり。図鑑・ネットで調べても、微妙に似ていたり違ったり。ならばやはり専門家に実物を見てもらうのが一番、ということで県立博物館に電話を入れた。
 「あの〜琴浦町の勝田川で丸っこい巻貝を見つけたんですよ。その名称を知りたいんですが・・・」
 「え、淡水の貝ですか?ここにはわかる者がいないんですけどね〜。良かったら、詳しい方を紹介しますけど・・・」
 そうだよなぁ。博物館の学芸員が全てを知っている必要はないもんなぁ。何かを知りたきゃ『○○を調べればよい』とか、『○○さんに聞けばよい』ということだけわかっていればえーわな。というわけで鳥取市在住の谷岡浩さん(推定65歳以上)を紹介してもらった。
◇      ◇
 待ち合わせの前日に、鑑定してもらうサンプルを捕りに勝田川へ出かけた。ド迫力台風4号の影響でかなり増水していたが、事前にマルショーで必殺貝捕り火バサミを仕入れていたので、水に濡れることなく簡単に5,6個捕獲することができた。
 待ち合わせ場所は谷岡さんの職場である鳥取市内の薬局だった。谷岡さんはその薬局の経営者。淡水貝の専門家は薬剤師でもあった。


【淡水貝博士・谷岡浩さん】

 「イシマキガイですね」
 谷岡さんの鑑定はあっけなかった。薬剤師だから効能とか副作用とかいろいろ勘案する必要があるだろうに、ものの5秒で断定されてしまった。
 あとで聞くと、千代川や河内川など県東部の川の汽水域には結構たくさんいるのだという。谷岡さん自身も、自分で採取した貝殻標本をたくさん持っておられた。
 そのイシマキガイ、国内では本州の中部以南から沖縄諸島にかけて生息しているようだ。寒さが苦手なのかどうかは別として、環境省が作成したイシマキガイ分布図には、やはり県東部での生息確認しかされていなかった。
 「たぶん県の中・西部は調査がしてないのでは・・・」と谷岡さん。
 取りあえず、僕たちが持ち込んだイシマキガイは、初の琴浦町産として晴れて谷岡さんの標本に加えてもらえることになった。
◇      ◇
 鳥取市から帰り、今度は勝田川でのロケに突入した。気水域を好むイシマキガイが、どの辺りまで生息しているのか、川を溯りながら調べていくことにした。
 持久橋下手の大量生息団地をスタート。まずは光橋南えん堤(河口から1,700m)へ。そこではいともたやすく魚道の升の中に生息を確認した。
 次は成美橋南えん堤(同2,500m)。ここは、えん堤の上に取水のための簡易堰がつくってあったが、その内側に2個、大き目の個体を見つけた。魚道にはカワニナ(にゅうにゃあ)もいたから、両者は共存できることもわかった。


【石にくっつくイシマキガイ】

 僕たちの遡上=ロケは、イシマキガイが見つかるうちは止められなかった。今度は佐崎橋南えん堤(同3,300m)である。
 「河口から3kmを超えているのに、もうおらんでもえーで」と思いながら、えん堤の落ち込みをのぞくと、何やら黒くて丸いような物が・・・。胸まで濡らしながら拾い上げると、残念ながらイシマキガイであった。
 そして大熊の大山橋(同6,800m)へ。さすがにここまでくると水が冷たかった。寒さが苦手なイシマキガイは住めないだろうなと思いながら川の中を探すと、案の定カワニナしか見えなかった。
 これはロケの後にわかったことだけれど、イシマキガイは気水性があるにもかかわらず、成長するにつれて川を溯っていくという面白い習性を持っているのだという。ヒマな人が調べたところでは、19時間で約20m移動したというデータもあるそうな。
◇      ◇
 イシマキガイのことを調べようと、インターネットで色々なページを検索していたら、この貝は『水槽の掃除屋さん』として、1個100円ほどで流通していることがわかった。熱帯魚の飼育ブームに乗って、かなりの需要があるという。
 また他県のある地域では増えすぎて駆除の対象になっている一方で、鳥取県では準絶滅危惧種に指定されている。
 とは言っても持久橋下手では、絶滅などどこ吹く風、大小雌雄様々な個体がたくましく繁殖していた。特に今の時期は、そこら中の石の表面に白い胡麻粒状の卵のうをびっしりと付け、磐石な次世代への体制を築いている。
 番組では最後に、薄めの醤油味で煮て食べてみた。『捕ったら食う』のはヒィーヒィー隊の隊是である。味は、予想通りシタダニ(海の巻貝)とよく似ていた。普段は、わざわざ捕って食おうとは思わないが、何かの加減で食料危機になんかなったりしたら、タンパク質の摂取にはお手ごろ・お手軽な食材になるに違いない。
 それにしてもイシマキガイは、水槽のガラス面しか掃除できんのかなぁ。どうせなら勝田川河口付近のきたな〜い川底を、集団でさっさーとキレイにしてくれればいいのに・・・。

2007年6月16日土曜日

アユと巻貝〈Peak.49〉



 6月1日は、全国のほとんどの河川でアユ漁が解禁になる。加勢蛇川も洗川も勝田川も黒川も。もちろん由良川だって。
 9時頃、加勢蛇川に行ってみた。左岸に車がずらり。見渡したところざっと30人が竿を出していた。いつもの年なら、9号線の上手にも釣り人がいるのに今年はゼロ。旧道の橋の上から川を覗いてみたら、案の定アユの姿は1匹も見えなかった。
 5月の中頃から気にはなっていた。JR橋上手のえん堤にチャレンジする稚アユの姿が一匹もいなかったからだ。
 そのえん堤には魚道がなく、100%の水がコンクリートのスロープを流れている。だから遡上しようとするアユは必死こいてそこを登らなければならない。


【激やせのアユ(加勢蛇川)】

 アユはいくら疲れていても目の前に流れがあれば、それを遡上していく。たとえムダだとわかっていてもサガは変えられない。命燃え尽きるまでチャレンジを繰り返す。
 大小様々織り交ぜて100m置きにえん堤が造られている加勢蛇川を上るのはつらい。目の前の障害を越えられない弱っちいアユは死んでいくだけ。屈強頑強幸運なヤツだけが次のステージへ進むことができる。
 僕より10歳ほど年上の古布庄のおっちゃんに話を聞くと、40年ほど前までは、別宮あたりまでアユが遡上していたという。
 えん堤がなく、水量が豊富だった時代は、おいしい藻をたらふく食って、どんどん力をつけながら、別宮までほいほい上っていたのだ。

◇      ◇

 アユは年魚とも呼ばれ、1年でその一生を終える。
 11月頃、川の下流域で誕生した命は、流れに乗って海に下る。
 冬の間、海でプランクトンなどを食べて育ったアユは、春になると川に入り遡上を始める。サケ科の魚とは違って母川回帰の習性はなく、水が流れていれば、それに逆らって上るという単純な面を持っている。
 川に入ったアユは、初めは肉食性で水生昆虫などを食べるが、しだいに草食性が強くなり、石の表面に付いた藻類を食べるようになる。藻類を食べることで、アユ独特のスイカに似た爽やかな香りが出てくると言われている。
 餌を食べながら上流域まで遡上したアユは晩夏から秋にかけて、大きいものは30cm近くまで成長し婚姻色を身にまとう。特にオスは黒ずんで体表のぬめりがなくなる。
 そして10月頃川を下り、下流域の小石底の緩やかな瀬に産卵する。卵は2、3週間で孵化し海へ出て行くのだ。
 加勢蛇川でもえん堤工事が始まる前までは、毎年こうした営みが続けられていた。今は、加勢蛇川で産卵するアユは1尾もいない。
 何で「いない」って断言できるだいや?と聞かれても、おらんもんはおらんのだからしょうがない。水が少なくて一番最初のえん堤さえよー越さんような体たらくで、誰が産卵なんかするだいや!
 少々下品な言葉使いになってしまった。川の話になると、ついつい興奮してしまうがな。とりあえずは水量さえあれば、アユたちもなんとか遡上していけるのだろうけど、山の降雪量が減ってるし、やっぱ地球温暖化が影響しているんだろうなぁ・・・。


【中尾橋(加勢蛇川)の魚道】
◇      ◇

 今回のロケでは、最初に勝田川へ行った。毎年6月1日には、勝田川河口もそれなりに賑わっている。一度も歩いたことがなかったから、どんな川なのか興味があった。
 でも、持久橋(箆津)の下手に下りてすぐ後悔した。川面にはプラスチック関係、川底には空き缶・ビン関係。話にならんほどゴミで汚れた川だった。

【持久橋(箆津)の下手の堰堤】

 勝田川の上流部は広葉樹林帯だから、水に有機含有量が多く、水量が少ないので茶色の藻がつくのは理解できる。でもゴミは別物。これまで、箆津の海岸がゴミであふれているのは海流の影響かと思っていたけど、川が運んできたものもかなりあるんじゃないかなぁ。
 川が汚れている証拠に、アユはほとんどおらず、汚染に強いハゼ・ヨシノボリ系の小魚が目立った。



 そこには初めて見る巻貝がたくさんいた。川の巻貝といえば、代表選手はカワニナ(にゅーにゃー)だけど、持久橋下手のヤツは巻きが弱く丸みを帯びていた。カワニナみたいに石に付いており、二つ仲良くくっついているのも目立った。
 名前は不明。放送のために図鑑とかネットとか色々調べても、不明。後で箆津に出向いて川周辺に住んでいる人たちに「何て貝?」って聞いても、みんなが「見たこともない」という言葉を返してきた。


【謎の巻貝。イシマキガイ?】

 たぶん、イシマキガイかクリグチカノコ、カバグチカノコあたりなんだろうけど、図鑑の写真と実物を見比べても『帯に短し襷に長し』。
 イシマキガイは鳥取県の準絶滅危惧種に指定されているんだけど勝田川を見る限りでは絶滅はおろか、旺盛な繁殖力があるようだしなぁ・・・。ふたつのカノコは九州とか沖縄にいる貝らしいから、なんか違うような気がするし・・・。
 ちなみに、勝田川の他の場所にもこの貝がいるのかなぁと思って探してみたら、光橋の上手にも生息していた。
 もしイシマキガイだとしたら、水槽に付く藻を掃除する(食べる)のが得意だそうな。ということで、TCCホール内の熱帯魚水槽に8個ほど放ってみたけど、2日経ってもじっとしているだけで仕事をしている様子がない。もしかしたら死んじゃったのかなぁ・・・?
 誰かが南国から持ち帰って放流したものが繁殖していったのかなぁ・・・?
 う〜む、わからん。何でもいいから誰かおせ〜て。詳しくは(53)2565巻貝係まで。

2007年4月14日土曜日

合併記念!ヤマザクラを見に行く〈Peak.48〉


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 暖冬の影響で、今年のソメイヨシノは随分早く咲くのかなぁと思っていたら、結局はほぼ平年並。このあたりでは4月の第2週に満開になった。
 ソメイヨシノといえば、今では桜の代名詞みたいになっているけど、実は江戸末期から明治初期にかけて、江戸・染井村の造園師や植木職人らによって育成された品種なのだそうな。当時は吉野桜(ヤマザクラの意)として売り出していたが、詳しい調査でヤマザクラとは異なる種の桜であることがわかり、明治33年に日本園芸雑誌において『染井吉野』と命名されたという。
 ちなみにヤマザクラは山に生えている桜だからそう呼ぶのではない。れっきとした品種名なのだ。日本に自生する桜の野性種の一つで、多くの栽培品種はヤマザクラをもとに選抜されている。つまり日本の桜の母に当たるのだ。
 その母、花が先に出るソメイヨシノと違って葉と花が同時に出る特徴を持っている。こちらは暖冬の影響を受けたようで、今年は随分開花が早かった。個体差があって一概には言えないけれど、いつもの年ならソメイヨシノと前後して咲く木が、今年は3月の末から満開になった。
 ヤマザクラの場合、開花が早い木と遅い木ではひと月ほどの差がでる。ソメイヨシノだとそこいら中で一斉に満開になるから、見頃はほんの2・3日だが、ヤマザクラは十人(木)十色。
 ソメイヨシノが普及する前は、日替わりで満開になるヤマザクラの木にあわせて長い間花見を楽しむ文化があったようだ。
 ところで4月1日付でケーブルテレビが合併し、その記念に「どこか湯梨浜町の山に登らないけんなぁ」と思っていたら、谷口隊員が耳寄りな情報を仕入れてきた。十万寺集落(旧東郷町)近くの山中に大きなヤマザクラの木があるという。
 大きな桜と聞けば花見しかない。
 というわけで4月14日、湯梨浜町の羽衣石(うえし)に久しぶりに隊員全員が集まった。目指すヤマザクラは羽衣石から三朝町山田へ通じる中国自然歩道の途中にある。羽衣石登山口—羽衣石城跡(376m)—三角点(518m)—ヤマザクラはおよそ3kmの行程。標高差は400mもないから、データ的に見れば楽ちんコースである。
◇      ◇

 羽衣石城跡へは去年の3月にこの番組のロケで上ったことがある。駐車場のある上り口から城跡まではわずか700mほどしかないが、その間に200m以上の標高を稼がなければならない。階段状登山道の勾配がきつく、翌日は両腿が筋肉痛になったのを覚えている。
 案の定、この道を初めて歩く3人が5分もたたないうちに、まとめて音を上げた。
 「あ、足が上がらん!」(小前)
 「歩き出す前に『えらい』って言っといてもらわんと・・・」(スエイシー)
 「しゃべるとえらいけ、しゃべらん」(浜本)
 歩かなければ放っておくだけなんだけど、野垂れ死にされてもかなわんし…ということで盛大に休憩をとり、登山道脇の春の花の撮影などもこなしながら40分ほどかかって城跡に着いた。
 羽衣石城は1366年(室町時代)に南条貞宗によって築城されたと伝えられている。城のある羽衣石山はとても険しい山で、もとは『崩岩の山』と呼ばれていたものを、城が永く続くことを願い、古歌にちなんで羽衣石山と改称したと言われている。もひとつ羽衣伝説に由来しているという説もある。現在の天守閣は平成2年に建てられた。
 さぁ先を急ごう。次の目標は標高518mの三角点。山の名はなく三角点だけがあるだけの変な山だけど、この区間がくせものだった。
 距離は1.7キロ。表向きは標高376mの城跡から142m登るだけなのだが、尾根につけられている道は、城跡からどんどんどんどん下っていた。下ったからには上らにゃならぬ。

 城跡までの道は北向きの斜面で杉が多く、どよ〜んとした気持ちで歩いていたけど、城跡を過ぎてからは南東に向かって延びる尾根道に変わり、まわりの木もアカマツ・落葉広葉樹・照葉樹中心に変わった。アップダウンはきついけど気持ちはう〜んと晴れやかになった。

◇      ◇

 登山道のあちこちにイノシシが体を木にこすりつけた痕があった。イノシシは体についたダニを落としたり体温調節をするために、よく泥浴や水浴を行う。特に泥浴を行う場所はヌタバ(沼田場)と呼ばれ、イノシシが横になり転がりながら全身に泥を塗る。そのことを『ぬたうつ』と言う。うんちくついでに紹介するとこれは、苦しみあがくという意味の『ぬたうちまわる』の語源になっている。

【かい〜の! イノシシの真似をする浜本隊員】

 その泥浴や水浴の後に、体を木に擦り付ける習性があるのだけれど、なぜかたくさんあるアカマツにその痕はなく、ポツンポツンとあるカラマツにだけ擦り付けた痕があった。イノシシはカラマツが大好きなのだ。
 1時間半ほどで三角点。そこから10分ほど行くと、目指すヤマザクラが現れた。
 僕の日頃の行いが良いというかなんというか、折しも満開。あまり手入れがされていないヒノキ林の中にぽっかり穴が開いたように異質な空間が広がっていた。
 ソメイヨシノの寿命は人間とほぼ同じ80年。ヤマザクラは数百年生きると言われている。
 目通りの直径は1mほどあるだろうか。ヤマザクラではいわゆる『巨木』の部類に入る大きさだ。上の方の花は少し丸まり、八重桜のようにも見えた。途中で幾筋にも分かれた幹と枝は横に張り出すのをヒノキに妨げられ、天に向かって伸びていた。
 この樹は深い山の中でどんな年月を重ねてきたのだろう。
 毎年どんな花を蓄えながら羽衣石山や十万寺の変遷を見てきたのだろう・・・。
 僕たちは丸っぽい花を目に焼き付けながら缶ビールと団子で乾杯し、このヤマザクラを称えた。

【歴史を刻んだヤマザクラの前で】

2007年3月10日土曜日

渓流の女王様に挑む〈Peak.47〉


 今年の冬は雪が降らんなーと思っていたら、いつの間にか3月になり、本格的な春になるかなーと思っていたら、名残の雪が降ったりして春が足踏みしてしまった。
 それにしても今年は杉花粉がきびしい。かくしてはいないけど何をかくそう僕は花粉症のベテランキャリアなのだ。
 あれは忘れもしない1981年の冬。当時、東京の郊外に住んでいた僕は、ある朝突然に連発くしゃみに襲われたのだ。その頃はまだ花粉症が世の中に認知されておらず、僕は肩身の狭い思いをしながらはなをかんでいたっけ・・・。
 以来苦節26年。花粉症は国民病として晴れてメジャーになり、僕も堂々とはなをかめるようになったのである。
 というわけで鼻もすっきりしたし、3月1日で渓流釣りも解禁になった。とりあえず『鱒返しの滝』を目指して、釣りをしながら船上山ダム上流の勝田川を溯ることにした。
 渓流魚の代表選手といえば、源流部に住むイワナ(岩魚)とその少し下流に住むヤマメ(山女)が2大勢力と言われている。岩と女を比べてどちらをとるかと言われれば簡単な話で、今回はヤマメがターゲットなのだ。
◇      ◇
 ヤマメは世間では『渓流の女王』とか『谷の妖精』などと呼ばれている。その理由は美しい肉体にあるようで、 “パーマーク”と呼ばれる細長小判型の模様が体の側面に8〜10個並んでいる。
 このパーマークはどうやら人間でいう蒙古斑と同じで、幼児期だけに見られる肉体的な特徴だそうな。つまりパーマークが美しく浮き上がっているヤマメは、まだケツの青いガキということなのだ。
 ヤマメはとても臆病で、毛鉤を振り込んでも興味を示して物色しにくるのはせいぜい3回。それ以上振り込むと怒って(?)どこかへ姿を消してしまうという。
 仮に餌をくわえても、ほんの少しでも変なところがあるとその場で吐き出してしまう。その後は警戒して、その日一日中餌を食べないことも稀ではないらしい。神経質というか、わがままというかなんというか、とても扱いにくい女王様なのだ。
 だから、今回のロケは普段とは違って、わいわいしゃべることもなく、釣り人とカメラが一定の距離を置きながら、カメラが釣り人の後をついていく格好になった。
 釣り人は2人。小前隊員と浜本隊員。小前隊員はお得意のルアーで、浜本隊員は“自称”お得意のフライでヤマメに挑む。
 普段なら僕は一番先頭を歩くのだけれど、今回は補助用のチビカメラで撮影しながら、釣り人の影を踏まないように3歩下がって歩いた。
◇      ◇
 鱒返しの滝(下段)を目指すのは4年振りだった。僕と田村・谷口・浜本各隊員の4人でずるずる滑る川の中を歩いて、深い雪の中で落ちる2月の滝を撮影したのを憶えている。そしてそのロケがきっかけになって、この『輝け!中年ヒィーヒィー登山隊』が番組としてスタートすることになった。
 あれから4年。やっぱりこの川の“滑り”は健在だった。何はともあれずるずるずるずるずるずる滑るのだ。だから注意して歩かないと即転倒即ズブ濡れの憂き目に遭う。いつもは少々の滑りなど頓着せずに石を飛んでいくシェルパ隊長でさえ、こわごわ歩いていたのが可笑しかった。


【自称得意・浜本隊員】

 自称得意の浜本隊員がフライを振りながらゆっくりと川を釣り上がり、小前隊員は滝つぼでルアーを引こうとさっさと上流方面へ消えていった。

【小前隊員はルアーで】

 というわけで、肝心の釣りの部分はたったの4行で終わり、勝田川に見切りをつけ、加勢蛇川支流の山川谷へ移動することにした。
 「ヤマメが無理なら、せめてゴミくらい引っ掛けて竿を曲げてみせいや。それができんならせめて川の中でこけて山場を作らんと・・・」
 大父木地から井滝に抜けるくねくね林道に酔いそうになりながら、僕は番組の成否の鍵を2人に託したことを後悔し始めていた。
◇      ◇
 山川谷は渓流釣りファンの間では知られたスポット。浜本隊員も「ここでなら釣ってみせます」と自信満々だ。車を下りるとすぐに二人ともまた水面と格闘を始めた。
 釣らない自称得意釣り師の後を、デカカメラを担いだ田村隊員が追いかけ、その後を三脚を担いだシェルパ隊長が続く。そんな様子を橋の上からチビカメラで撮影していたら、いかにも釣り師という格好をした2人のおっちゃんが川沿いの道を歩き下ってきた。
 「釣れました?」
 「う〜ん、今年はいけんなぁ・・・5,6匹だわい」
 「ここを釣って上がんなったですか?」
 「うん」
 そう言うとおっちゃん達は、ウェーダー(長靴付き防水ズボン)を脱ぎ、道の脇に停めてあった車に乗り込むと、ブンと一回空ぶかしを入れて帰っていった。
 川沿いに山ほど植えてある杉の木がざわわと揺れて花粉が舞った。
 少し前に川を釣り上がった人がいるのに、自称得意の腕前では釣れるわけがない。
 僕は5連発のくしゃみをしながら、小前隊員の後を追って上流へ向かった。

【結局 小前隊員がようやく1匹釣り上げた】