2007年1月20日土曜日

大寒に船上山に登る〈Peak.46〉



 1月20日は大寒(だいかん)。大寒の“寒”とは立春前のおよそ1か月間を言い、その中でも最も寒い時期が大寒の頃になる。
 例年だとその時期には、標高の低い船上山(616m)といえども1m以上の雪があり、スノーシューやアイゼンなしにはとても山に入る気にはならないのだけれど、今年はその気になってしまった。
 バルセロナ五輪金メダリストの岩崎恭子(う〜む、古いな…)じゃないけど、僕がこれまで生きてきた中で、今年の冬は一番雪が降らないような気がする。
 というわけで、大寒当日1月20日に船上山に登ることにした。
 船上山といえば古い歴史のある山。南北朝時代(1336年〜1392年)の初めに、後醍醐天皇方の名和長年と、室町幕府方の佐々木清高の軍勢がぶつかり、合戦の舞台となったことで広く世の中に知られるようになった。
 たった600mそこそこの山だけれど、ブナやミズナラなどの自然林が美しく、屏風岩などの断崖も見事。観光地としてではなく、登山対象の山として見てもなかなかあなどれないヤツなのだ。
◇      ◇
 起点は東坂登山口にした。薄ヶ原(山頂)までかる〜く登り、船上神社から西坂登山道を下りて、途中で森林鉄道跡に軌道修正、再び東坂登山口に還ってくるプランをたてた。つまり、船上山をぐるっと一周するのだ。
 今年初めてのロケだからぜひ全員出席で、と思っていたら、小前隊員が「今月は仕事が忙しくて休めませ〜ん」と泣きを入れてきた。ホントは魚釣りに行くのかもしれないけど、仕事だと言われてしまえば仕方ない。
 スエイシー隊員も欠席。彼は近頃県外で活躍しているらしく、なかなか日程がとれないと連絡が入った。
 山登りは撮影機材を持つのが大変だから、できるだけ人数の多い方がいいのだけれど、ま、シェルパ隊長は健在だし、5人いれば何とかなるかなと思っていたら、田村隊員が「午前中で早退します」と届け出た。
 え〜かげんにせーよ。
 あれは忘れもしない昨年の12月30日朝7時55分頃。その日、正月特別番組の撮影担当という重要な役目を背負いながら大遅刻をかました田村隊員は、その番組の中で「今年は無遅刻無欠勤が目標」とぬかしたはず。その舌の根も乾かぬうちに、というか、すぐ次のロケで早退とは何事か!
 ふつふつと怒りが湧いてきたところで田村隊員がまたまたぬかした。
 「遅刻でも欠勤でもないから“早退”はしてもいいでしょ」
 ん?妙に説得力があるぞ!?
 ふつふつと湧いていた怒りは、強烈な屁理屈を前に、へなへなと萎んでいったのだった。
◇      ◇
 大寒の天気は快晴だった。ちょっと風があるけど寒くはない。
 プラン通りに東坂から薄ヶ原を目指して登った。横手道との分岐点を過ぎたあたりからは北側斜面になり、凍みた雪と霜柱を長靴でバリバリ踏みながら歩いた。
 これも暖冬の影響だろうか。そこら中に野ウサギの糞が落ちていた。雪が少ないからウサギたちも快食快便、元気に冬の暮らしを楽しんでいるに違いない。
 足跡もたくさんあった。ウサギは『けん・けん・ぱっ』と歩くから、後ろ足の方が前足より前にくる独得のパターンを残す。雪の上に残った4本の足跡は、輪郭が少しボヤけてイノシシの足跡くらいの大きさに成長していた。


【ウサギの足跡は『けん・けん・ぱっ』】

 田村隊員が届け出通りに早退した後、断崖の『千丈のぞき』で恐る恐る下界を見たり、途中の水場で山水を飲んだりしながら船上神社へ向かった。
 赤碕町誌(昭和49年発行)によると、船上神社は、神仏混交の頃は『船上山三所権現』と呼び、寺僧が祭っていた寺内鎮守であった。明治11年に、お堂の中の仏体や仏具を竹内の智積寺に移して、船上神社と呼ばれるようになったという。神社の周辺には、寺跡と推定される所が18か所あると言われている。
 なんだか、歴史講座みたいになってしまったけど、船上山は歴史の山なのだから仕方ない。
◇      ◇
 神社に来たからにはお参りは欠かせない。賽銭箱に100円玉を投入れ、3人並んで手を合わせた。谷口隊員と浜本隊員は小銭を持っていなかったので、僕が40円、二人は30円ずつの配分にした。
 でも、たぶん神様は、実際にお金を出した僕の願い事しか聞いてくれないと思う。
 それにしても、お金が余っているわけでもないのに、神社を訪れるたびに賽銭を投げ、そんなに簡単に願い事がかなうはずもないのに、ついついお願いしてしまうのは小市民の悲しい性(さが)としか言いようがないなぁ…。
 雪の残る西坂登山道を下り、プラン通り途中から森林鉄道の軌道跡を歩いた。
 船上山の案内パンフレットなどにはこの森林鉄道跡のことが書いてあるから、その存在は知っていたけど、実際に歩くのは初めてだった。


【森林鉄道の軌道跡を歩く】

 その昔、山で伐採した材木を貨車に積んで馬車(?)の待つ場所にまで出したのだろう。線路は残っていないが、平らに均された路面を見ると、森の中を駆け抜ける貨車のきしみと線路の悲鳴が聞こえてくるようだった。
 残念なのは、この森林鉄道の歴史を調べようとしたけれど、どこをひっくり返しても何もわからなかったこと。
 誰か、なんでもいいから教えてください。連絡お待ちしています。
 う〜む・・・また今月もオチがなかった。