2006年11月23日木曜日

われらは“やぶこぎ”登山隊〈Peak.44〉



 一向平を出て、吊り橋を渡り40分で大山滝へ。大山滝から大休口(おおやすみぐち)を経て、ヒィーヒィー言いながらつづら折れの急坂を1時間半登って横手道に出る。そして息を整えながら20分歩いて大休峠に着く
 琴浦町の最深部を通って大山寺へ至るこの道の歴史は古く、平安の頃から『大山道』と呼ばれていた。今では中国自然歩道として整備されている。
 その大山道を歩くたびに、というか、ある場所を通るたびにいつも気になっていたことがあった。
 その場所とは、横手道に出る30分ほど手前にある『三本杉分かれ』と名づけられた三叉路。とは言っても、枝道の方にはずっと前から《通行止め》の標識がかかっており、道の名残らしき跡がやっと確認できるだけの“なんちゃって”分岐点なのだ。
 でもそこは大休口から大休峠までの中間点付近にあたり、急坂をゼェーゼェーないしはヒィーヒィー言いながら上ってきた登山者が腰をおろして休憩するポイントになっている。
 で、目の前に『三本杉分かれ=この道は通れません』なんて書いてあったりするからずっと気になっていたのだ。
◇      ◇
 その昔、大山寺へ行くのに、人や牛馬が大山道を歩いていた時代のこと。な〜んて言うと江戸時代か?と思いがちだけど、れっきとした昭和も含まれている。
 三本杉より里の集落の人たちは、大休峠(大山寺方面)へ行くのに、一向平から大山滝、大休口を通って行くよりも、加勢蛇川の支流が流れている山川谷を通った方が早かった。だから三本杉の人たちは、行きも帰りも山川谷ルートを歩いた。
 旅は道づれ世はなさけ??行きはバラバラでも帰りは、関金や野井倉の人たちと一緒になることが多い。でも三本杉の人は、分岐点にさしかかると、「バイバイ」と言って道を分かれていく。だから『三本杉分かれ』と言われているのだそうな。
 なら、我々も歩いてみるしかない。というわけで放送日を翌日に控えた11月23日、祝日でしかも雨まじりだというのに林道の終点に車を乗り捨て歩き始めた。
 ほんとに久しぶりに浜本隊員の顔があった。2005年の1月、ジャンボかまくらをつくって以来だから1年10か月ぶり。本人の話では「仕事の都合がつかなかった」らしいが、隊員の間では「くさい飯を食っていたらしい」という噂も流れた。
 山川谷の登山道を歩くのは、個人的には1年半ぶり。ヒィーヒィー隊としては2003年7月の『新滝発見』以来だった。
◇      ◇
 この登山道は最初の1時間が何ともうっとおしい。手入れがされていなくて昼間でも暗い杉林の中を、黙々と修行僧のように歩かなくてはならないのだ。別に黙々と歩かなくてもいいのだろうけど、圧迫感のある人工林は、みんなの心と口を閉ざしてしまう。
 雪の重みで折れた杉の木が登山道をふさぎ、行く手を横切るいくつもの沢が、ひとつの例外も許さず、道を流し崩していた。
 日本山岳会山陰支部製作の概念図(地図を略して山や川の位置関係や登山道をわかりやすくしたもの)によると、杉林を抜けてしばらく歩き、山川谷の本流を渡って、尾根を1kmほど上っていくと『三本杉分かれ』に出るはずである。でも、その概念図には、このルートは“道のないコース”であることを示す表記がされていた。
 杉林を抜けるとすぐあったはずの熊笹の森が、道の部分だけきれいに刈られていた。
 1年半前に来たときは、顔のあたりまである熊笹をかきわけながら進むのに随分苦労した記憶がある。
 いったい誰が何のために・・・な〜んてことはどうでもいい。自然林の中を気持ちよく歩けるのに何の不満があろうか。
 その笹刈り道をしばらく行くと、大きなブナが横たわっており、きれいなナメコがひとかたまり生えていた。

 よく見ると、その倒木には生え腐れしたナメコがたくさん残っている。なんとまぁもったいない。それにしても、この道をいかに人が通っていないかがよくわかる。
◇      ◇
 30分ほど歩いて山川谷の本流を渡り、僕も隊員たちも歩いたことのない未知のゾーンに突入した。
 踏み跡は当然なかった。でも、積雪期の登山道判読赤テープが木の枝にしっかり残されていたので、比較的すんなり進んでいった。
 どこの誰だか知らないけれど、月光仮面のようなお方が刈られた “熊笹5分刈街道”も途中からまたまた出現した。(注:少し伸びていたから5分刈なのだ)
 しかし世の中はいつまでも甘くなかった。月光仮面の道はいつしか消え、先頭を歩く僕の体はいつの間にか身の丈ほどの熊笹に囲まれていた。

 目の前の熊笹を右手でかき分けながら、前のヤツを左足で踏み倒す。次は前のヤツを右足で踏んで左手でよけて行く。
 「テープはどこだ!?」
 熊笹ヶ原に怒声が響く。
 「あそこにあります!」
 「どこだ?見えんがな!」
 こんな繰り返しが300mほど続いただろうか。いつしか笹はまばらになり、照葉樹の低木やブナの幼木が目立ち始めた。と思ったら左前方に見慣れた標識が見えた。


 ガスがどんどん濃くなってきていた。大きなミズナラの木が、突然現れては消えていく。
 僕は心の中で「この道は通れましたよ」とつぶやいた。

2006年11月15日水曜日

年末恒例!? 登山隊この一年〈Peak.43〉

 なんとなぁ…また1年たってしまった。また歳とるだなぁ…。
 去年も書いたような気がするけど、この前正月だったと思ったら、あっという間に年末になってしまった。
 というわけで今号は年末恒例企画。矢のように過ぎ去ったヒィーヒィー隊の2006年を振り返ってみようかな。
◇      ◇
 1月の放送は、100円バスに乗って三本杉で降り、そこから歩いて一向平を目指した。
 途中、道ばたに一本の赤梨の木を見つけた。樹高が柿の木のように高く、それまで車で幾度となく走っても見落としてしまっていた木。歩かなければ何も見えないことを改めて思い知らされた。

 2月は冬の定番、ジャンボかまくらづくり。今年も『らくらく山歩会』のメンバーに手伝ってもらった。
 歳はいっても(失礼!)、かまくらづくりで子どものようにはしゃげるのはとても素敵なこと…さすが山おんな。
 出来上がったのは直径4m、高さ3mのジャンボなやつ。11人が中に入り、七輪を囲んでお汁粉とカキ餅をいただいた。
 山歩会のメンバーに誘われて参加してくれた英語指導助手のキャサリンは、米国式の3段雪だるまをつくった。

 4月は大河ロマン。僕の母校・東伯小学校の校歌にある♪要害山を切〜りひ〜ら〜き♪の『要害山』の歴史をひもといた。
 な〜んて言うとたいそうだけど、なんで“要害”の名が付けられたのか知りたかったのだ。
 で、なんでかというと…戦国時代のある時期、この地が尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となり、羽衣石城(湯梨浜町)を拠点とする尼子氏が妙見山(琴浦町大杉)に出城を構えた。そのとき八橋城を支配していたのは毛利氏で、尼子氏が毛利氏の攻撃に備えるため、公文にある小さな山を“要害(=城砦)”として位置づけた…からなのだ。
 中学・高校と歴史を教えられても、まったく身に付かなかったけど、ちょっとだけ興味を持って調べてみれば、すぐに面白くなって、本格的に郷土史を勉強しちゃおかなぁ、なんて気にもさせられた。
◇      ◇
 5月から8月は4連チャンで川関係。暑いときは水の中に限る、こともあるのだけれど、ちゃんとした理由もある。
 『山が海をつくる』ことは、近年あちらこちらで声高に叫ばれているが、山と海をつなぐ川のことが少しおろそかにされている気がしてならない。だからわが隊は川にこだわるのだ。
 洗川では赤バエを釣った。子どもの時に加勢蛇川で見て以来だから、実に35年ぶりくらいの対面。食べて美味しい魚ではないけど、橙色と群青色を基調にした派手目の体色がなんとも懐かしかった。

 由良川ではカヌー。加勢蛇川では小魚を追いかけた。泥バエ、ウグイ、ゴズ、サーランドジョウ、ザッコ…それなりに魚種はいるが、なんとも密度が薄い。アユの姿は河口近くでしか見つけることができなかった。
 川の中の生き物は、その川の現在の実力を映し出す鏡のようなもの。アユのいない川は“水路”と呼んでさしつかえない。
◇      ◇
 9月のテーマは里山のキノコ。小松林の中でヌメリイグチ、ハツタケ、アミタケを採り味噌汁にした。
 年配の人たちにとっては、昔よく食べていた懐かしいキノコだったようで、「あれ、場所はどこだっただいなぁ」と、何人もの人に尋ねられた。

 昔は、畑のそばの林などに生えていて、秋になると採って食べていたのに、林がなくなって、キノコのこともすっかり忘れていたという人が多かった。
 そういえば、10月になって今年初めて山らしい山に登ったんだった。
 言い訳するわけじゃないけど、今、通行止めとか登山禁止とかで、山にはとても行きにくい環境にあるから、少しは大目に見てもらわないけんのかな。
 ともあれ、今年はスズメバチにも刺されなかったし、隊員全員ロケ中のケガはなかったので良かった、良かった。