2004年4月8日木曜日

今度は赤碕の飯盛を登(や)る〈Peak.13〉



 またまた飯盛山。東伯町では“いいもりやま”と呼んだが、赤碕町では“ええもりやま”と呼ぶらしい。いいもりやまの放送の後、「赤碕にもあるけ、一緒に登らい」という電話がかかってきた。
 電話の主は大父木地の小椋弘志さん(67)。子どものころから、茸や山菜採りでそこいらじゅうの山を歩いてきたツワモノである。
 早速地図を開いてみた。小椋さんからの情報によると、その山は赤碕町と東伯町の町境にあるらしい。飯盛と名がついているから等高線がそれらしい山を探したら・・・あった!
 地図上に名前はないが、標高は906mと書いてある。先月登った東伯の飯盛山より47m低い。でも等高線の具合は、正統派・飯盛山の形をしているようだ。
 お釈迦様の誕生日4月8日の朝8時に大父木地の親水公園で小椋さんと待ち合わせた。
 天候は曇り。前日までは雨の日が多く、決行がのびのびになっていた。でもさすがにお釈迦様はエラい。放送日前日というギリギリのところで我々を救ってくれた。
 でもギリギリはつらいのだ。下山したらすぐ編集作業が待っている。どーせなら、もっと早く助けてくれれば良かったのに・・・と思いながら車で林道へ。途中に飯盛山を展望できる場所があった。杉木立の間に山頂付近がもやって見える。
 「うーん・・・」
 なんか思っていたイメージと違う。
 なんとなく遠いのだ。正統派・飯盛山ではなく、北斎が描いた富士山みたいな形をしていることなどどうでもいい。ずいぶん遠くに見えるのだ。
 小椋さんからは「笹ヤブが多くて道はないけど、かたけ(半日)もありゃ行って帰ってこれる」と聞かされていた。約束はしていないけど、約束が違うではないか。こりゃホントにヒィーヒィー言いそうだ・・・お釈迦様の分もあわせて小椋さんに愚痴ろうと思ったけど、大人気ないのでがまんした。
◇     ◇
 矢筈川に沿うようにして林道が造られている。前日の大雨にもかかわらず、矢筈川は濁りひとつなかった。さすがである。源流部に広がる広葉樹林は能力抜群の浄水器だ。
 親水公園から車で5分ほど走って、通行不能になった。車を早く降りるということは、長く歩くことを意味する。歩くことは好きだが、初めての場所だとペース配分がわからないし、心も構えようがないから不安だ。
 「もう行けないのか」と落胆に似た気持ちをひきずりながら、杉の人工林の中を歩き始めた。飯盛山の近くまでは、けもの道みたいな山仕事の作業道が残っているという。
 杉林の中は気が滅入る。植林した当時は用材としての需要もあり、遠い将来を見越した賢者の選択だったのかもしれないが、手入れされずに放置された杉林は、財産どころか“負の遺産”になっている。
 保水力は広葉樹には遠く及ばず、花粉は最大最強のアレルゲン。間伐や枝打ちをしない林は、たった数年で一筋の光さえ差し込まず、一本の下草も生えない死の森へと変わっていく。
 千里の道も一歩から。いくら遠く感じても地道に歩を進めれば、やがて目的地に着く。途中1ヶ所だけ、ずるずる滑る急斜面の難所があったが、滑落する隊員もなく、1時間ほどで飯盛山の麓に着いた。


▲出発しておよそ1時間、飯盛山の麓に到着。
 山頂アタック前に水分補給。

◇     ◇
 やっと目指す山へのアタックが始まった。もちろん道はない。だが笹ヤブがある。雪がある。
この雪がくせものだった。“はまる”のだ。
 4月だから当然、日当たりの悪い場所にしか残っていないが、先頭を歩く小椋さんの足跡をトレースしても“はまる”のだ。
 小椋さんの体重は、たぶん60kgに満たないに違いない。でも体重差を考慮してもはまりすぎだ。地面に近いところが溶けて、空洞になっているからはまるのだが、岩の間に乗っているような雪だと確実に股間まではまって、止まった。


▲北側斜面にはまだたっぷり雪があった。腰まで埋もれた田村隊員を助ける前田隊長。

 小椋さんは「はまらん歩き方があるだ」と言っていたが、やはりそうなのだろう。
 登って、撮って、はまって、休んで・・・およそ2時間。山頂は東伯の飯盛山と同様に森林限界を超えていなかった。だから開放感はなかったが、木々の間から見える甲ヶ山は迫力たっぷり。いつもは遠くから眺めるか、実際に登るか、選択肢が二つしかない山なので、眼前に迫る山肌には新鮮味があった。


▲飯盛山山頂から見た甲ヶ山(1,338m)
 
 敢えていばらの道を行くのが隊是とはいえ、2か月続けて登山道のない急傾斜の山に登ると、フツーの山が恋しくなった。
 −−視聴者の皆さん、読者の皆さん、
 「一緒に登ろう」っていうお誘いは大歓迎ですけど、できたら道のある山にしてくださいね−−