2005年12月20日火曜日

想ひ出ぼろぼろ・・・一向平へ〈Peak.33〉



 今はどこにいったかわからないが、わが家に1枚の古い小さな写真があった。古いと言ってもたかが40数年前。昭和30年代のモノクロ写真である。
 昨年話題になった映画『ALWAYS・三丁目の夕日』にも登場したオート三輪。写真は、マツダ製のオート三輪の荷台に山ほど人が乗っているものだった。
 裏を見ると“一向にて”のキャプション。小学校に入るか入らないかぐらいの僕も写っていた。
 もちろん、何をしたかはまるで覚えていないけど、たぶん村をあげて一向平へ行き、原っぱで飲んだり食ったり走ったり?して遊んだのだろう。名刺ほどのサイズだから顔は豆粒。でも笑顔がたくさん並んでいたのを覚えている。
 その一向平は開拓の地。
 もとは野井倉の人たちの土地(山)だったが、戦争が終わって国に強制買収され、昭和23年旧満州から引き揚げてきた13人が入植した。
 開墾の困難さに加え、いくら手を入れてもなかなか肥えない土壌。冬の寒さと雪の多さも入植者たちを苦しめ続けた。
 毎年一人去り二人去り・・・。高度経済成長の荒波が追い討ちをかけ、昭和47年には全員が一向平を下りた。
 そして血と涙と汗によって切り拓かれた土地は日本パルプ、現在の王子製紙に売却された。
 なんかプロジェクトXみたいな感じで、知ったかぶりして書いてしまったが、全部、一向平の今昔に詳しい松本薫さん(野井倉)の受け売りなのだ。
◇      ◇
 当時の一向平はいったいどんな様子だったのだろう。僕自身、何を隠そう中学2年のとき(1969年)に、これまた何を思ってか森藤の自宅から一向平まで歩いて行ったという記憶があるんだけど、行ったということの他にはな〜んにも覚えていない。ススキの原っぱが広がっていたような気もするけど、まるで定かではない。
 もう一度歩いたら、何か思い出すかもしれないなぁ・・・なんて軽く考えたのが今回の企画。まずは田村隊員と一緒に浦安駅から100円バスに乗りこんだ。
 なんで森藤から歩かずに100円バスに乗るだいや、なんて指摘が聞こえてきそうだが、軽く考えているから何も問題ないのだ。
 高松で谷口隊員、下大江で末石隊員、カウベルホールでは朝倉シェルパ隊長がドカドカと乗り込んできた。
 たった100円しか払わないのに、浦安駅からずっと貸し切り状態でくつろいでいたら、下光好を過ぎたあたりから末石隊員がバスの後方をしきりに気にし始めた。
 聞けば、忘れ物をして、奥さんがそれを届けにバスの後を着いてきているという。
 運転手さんに事情を話して、『切り込み』のある法万のバス停で止まってもらった。安いだけじゃない。融通がきくのも100円バスのいいところだ。ちなみに『切り込み』とはバス業界用語で道路脇に設けられている“バスの停め場”のことを言う。
 終点の三本杉上でバスを降りた。
◇      ◇
 冬場は鏡ヶ成方面が通行止めになっているから、三本杉より上は、この時期極端に交通量が減る。
 「なんか、県道全体が登山道みたいだなぁ」などとほざきつつ、道ばたの雪の塊をドリブルしながら5人が道いっぱいに広がって歩いた。
 県道を野井倉集落方面へ折れ、一向平へ通じる旧道へ。道にも15センチほどの雪があったが、固くしまっていてとても歩きやすかった。
 道ばたに1本の梨の木があった。て言うか雪の上に小さな赤梨の実が落ちていて、上を見上げたら枝に同じ果実がついていたからやっと梨の木だとわかった。
 樹形がコネリ柿の木みたいに高いから、梨の木にはとうてい見えないのだ。
 末石隊員は実を拾うと早速皮をむいた。少しだけ口に入れると、すえたような風味の奥に、梨特有の甘酸っぱさがしっかり残っていた。それにしてもせん定や誘引をしない梨の木は高くなるもんだ。


▲道ばたにあった梨の木。せん定や誘引をしない梨の木は高くなるもんだなあ。

 昭和50年頃には営業していた鱒釣り場の跡もきっちり残っていた。
 実は僕はその昔、この鱒釣り場に一度来たことがあった。いつ誰と来たのか、例によってその辺の事情はまったく覚えていないが、ここで2,3匹軽く釣ったことは覚えているのだ。
 松本さんによれば、山村振興のための補助金を活用して野井倉の人たちが共同で経営し、3年ほど続いたという。
◇      ◇
 一向橋を渡り、スギ・ヒノキ林を抜けて一向平へ上っていった。
 畜産団地からキャンプ場へ通じる直線道路は雪が緩み、歩きにくいことこの上なかった。雪表面から10センチほどだが、きっちり“はまる”のだ。
 しばらくは先頭に立って歩いたのだけれど、ズボズボズボズボ・・・。  
 そーっと歩いてもやっぱりズボズボズボズボ・・・。
 え〜かげん腰は痛くなるし、気力も萎えてきたので、先頭を末石隊員に譲って、彼の足跡を楽ちんトレースしていくことにした。
 さすがと言うべきか、以外にもと言うべきか米国製のエンジンは素晴らしかった。キャンプ場までの1kmの間、終始馬力が弱ることなく、みんなに足跡を提供し続けてくれた。


▲この時期、一向平キャンプ場を訪れる人はほとんどない。静けさを楽しむにはもってこいの場所。時折アカゲラのドラミングが聞こえた。

 途中から僕は尊敬の念を込めて、心の中で、彼をラッセル・スエイシーと呼んだ。
 やっぱり歩いてこそ、なのだ。
 梨の木もそうだったけど、歩いてみなきゃ何も発見できない。
 よーし、今年も歩き倒すぞ〜!

2005年11月20日日曜日

登山隊この一年〈Peak.32〉

 いやぁ、この前正月だったと思ったら、あっという間に年末。今年も終わりだぁ…。
 若いころは、年配の人がこの種のことを言うのを年の瀬の枕詞ぐらいにしか思っていなかったが、僕自身人生の後半戦に突入してからは実感、実感、また実感。たとえは古いけど超特急のように時が過ぎ去り、坂道を転がるように齢を重ねていってしまう。
 というわけで今号では、あっという間に過ぎ去ったヒィーヒィー隊の今年1年を振り返ってみようと思う。
◇      ◇
 1月は・・・そうそう、らくらく山歩会のメンバーと一緒に、一向平でジャンボかまくらをつくったのだった。

 直径4m。外壁の厚さを差っ引いても6畳分くらいの広さがあり、14人が楽に入れた。
 意外だったのはミニかまくら。バケツに雪を詰め、それを逆さにしてスポッと出したやつをシャベルかなんかで適当にくり貫いて、中にローソクを立てた簡単なものだが、雪の壁を通して揺れる炎がとても幻想的だった。ジャンボは無理でもミニなら簡単につくれるので、皆さんもぜひ一度挑戦を。

 2月はビーチコーミング。
 さぶいさぶい時に、何を好き好んで海岸を歩くだいや、とあきれる声もたまに聞くけど、浜辺の宝探しは真冬に限るのだ。なぜなら山陰の海岸に流木ゴミその他が流れ着くのは、季節風の関係で圧倒的にこの時期が多いから。
 ところで、すっかりヒィーヒィー隊の定番活動となった感のあるビーチコーミング。今年はなんと<strong>《第1回環日本海流木アート大賞展》</strong>を開いてしまった。
 大賞展にあわせて、あわてて拾い集めたものや以前からお宝のように大切にしていたものetc。遠くは鳥取市、主に琴浦町から80点ほどの出品があった。
 作品をつくるために海岸を歩き、流木を拾い集めることで、もう一度ふるさとの海を見つめ直してほしい・・・この大賞展を開くまでは、僕たちのそんな願いがどれだけ届くのか不安だったが、期間中に来場者から寄せられた174通の感想が自信を与えてくれた。
 というわけで2006年春には第2回の流木アート大賞展を開くので、またまた皆さんもぜひ挑戦を。



◇      ◇
 ラージマウスバス=オオクチバス。一般にはブラックバスと呼ばれている。80年前に米国から持ち込まれた。以来、釣り人その他によってあっちこっちに放流され、今では日本全国のため池や川に棲みついている。

 この淡水魚は、在来の魚を食い尽くしてしまうため、世間からは害魚扱いされている。
 当の本人(本魚?)にとっては何とも理不尽な話で、知らぬ間に日本に連れて来られて、エサの小魚を食べながらひっそりと地味な暮らしをしていたら、いつの間にか犯罪者に仕立て上げられてしまっていたのだ。
 番組では、小前隊員がTVカメラのプレッシャーに負けることなく上鳥池で見事にバスを釣り上げ、その場で塩焼きとムニエルにして食べた。

 外見だけでなく味もスズキそっくりなので、これまた皆さんもぜひ挑戦を。

 9月にはスズメバチに刺された。それも腕と背中に6ヵ所。恥ずかしながらスズメバチが黒色を好んで襲うことを知らずに、一番危ない時期に黒い服を着て山に入ってしまった。
 「よーもまぁ6ヵ所も。でも顔を刺されんで良かったですねぇ」と、解毒の点滴中に看護士さんから言われた。


 スズメバチは髪の毛の黒色にも反応するという。後で思えば、額にピンクのタオル鉢巻をしていたから顔をやられなかったのかもしれない。
 ということで「もうたいがいにせー」と言われそうだけど9月・10月に山に行く時には、皆さんもぜひ明るい色のタオル鉢巻を。



◇      ◇



 いやぁ、しかし思い出せん。もっと面白いことや書かないけんことがあったはずなのに、さっぱり思い出せん。
 この前正月で、あっという間に年末になったのなら、その“あっ”の間の出来事くらい覚えていてもよさそうなのになぁ。
 ま、自慢じゃないけど昨日のこともほとんど覚えていないのに、何ヶ月も前のことが思い出せるはずもないわな。
 というわけで、ややこしいことはあまり深く考えずに、2006年も中年ヒィーヒィー登山隊をよろしくお願いいたします。

2005年10月25日火曜日

登山隊今年も芋を食う〈Peak.31〉



 もう30年以上も昔、僕がまだ高校生だった頃。秋が進んで肌寒くなった時期にラジオから『芋煮会』という言葉が聞こえてきた。
 たぶん平日の夕方で、年配風の男性&女性アナウンサーがNHKらしい穏やかな口調で、リスナーからの便りを紹介したりしていた。初めて聞いた時は漢字が想像できなかった。
 「いもにかい?」
 でもアナウンサーが紹介する便りを聞いているうちに『芋煮会』だとわかった。
 川原でサトイモその他を煮て、酒その他を飲みながらみんなで賑やかに騒いだりする、なんだか楽しそうな催しらしかった。
 宮城なら豚肉を投入して味噌仕立て。山形なら牛肉で醤油味。今ではコンビニでも芋煮会セットが売られ、東北の人にとっては誰もが知ってる秋の風物詩となっている。
 そんな芋煮会を一昨年から内々で始めた。会場はもちろん加勢蛇川。いくら草ぼうぼうで荒れていても近くにあるのだからしょうがない。


▲加勢蛇川の川原で芋煮の準備をする隊長ら。けっこういい中州が見つかった

 ここ数年加勢蛇川原では、セイタカアワダチソウ・クズ・カナムグラの雑草御三家による“仁義なき戦い”が繰り広げられていたが、今年は数回の大水で御三家が流され、石・砂がかなり顔を出している。
 堤防から少しだけヤツらを踏みつけて歩けば、飲み食いする場所も比較的探しやすくなっているようだ。秋の一日を楽しめる場所を探して、河口から堤防を走ってみることにした。
◇      ◇
 国道9号から加勢蛇川下手の一帯は、誰が見てもセイタカアワダチソウ(え〜い!長い!以下“セイタカ”に省略)の縄張りに違いなかった。
 セイタカと言えば、根から毒を出して近辺の植物をやっつけ、自らの勢力を伸ばしていく性悪者として知られ、今ではやっかい者の代名詞みたいになっている。でも30年以上前(またかいや!)は違っていた(たぶん)。
 なんだか()が多いが気にしない。実は僕はその決定的な理由となる衝撃的な事実を覚えているのだ。
 ん?決定的とか衝撃的なんて文字を使ったら大げさな雰囲気になってしまった。言うのが恥ずかしくなってきたけど、思い切って言ってしまおう。
 実は30年以上前に、当たり前だが昔は若かった女優の十朱幸代が《セイタカアワダチソウ♪》という唄を歌っていたのだ(たぶん)。
 十朱幸代は、当時はバリバリの清純派美人女優(だったかな?)。つまりセイタカは、彼女が歌っても(彼女の)イメージを損ねない評価をされていたということなのだ。
 セイタカは、当時はまだ空き地その他にポツポツあるだけで、秋の風にそよぐ長身の美人植物的な扱いをされていたのだと思われる。
 う〜ん、なんだか理屈っぽくなってしまったけど、ついでにもう一つセイタカの弁護をしておけば、ヤツはアレルギーを引き起こすとされている向きがあるが、それはまったくの誤解。
 セイタカは花粉を飛ばして受粉させる風媒花ではなくて、虫に花粉を運ばせる虫媒花だからアレルゲンにはならないのだ。
 ま、日頃のおこないが悪いから、ブタクサと間違われているのかもしれない。
◇      ◇
 芋煮会の主役・サトイモは昔ながらに芋車で擦った。
 芋車は、昔の人の知恵が結集されているスグレモノである。家の前の川にセットさえしておけば、流れの速さとサトイモの量にもよるが、1〜2時間で料理前の下準備を9割方終えてくれる。
 ほかの用足しをしているうちに、ちょうど栄養価が残る程度に皮をむいてくれるのだ。
 サトイモには当然デコボコがあるから、ボコ部分にはどうしても皮が残ってしまうけど、それは仕方ない。後でちょっと取り除けばいいのだ。その手間が嫌ならサトイモを食わなきゃいい。


▲芋車は昔の人の知恵が結集されているスグレモノだ。芋だけでなく、たとえば洗濯物だって洗えるかもしれない

 昼前になって新上法万橋の少し上手の川原に降りた。たき火をして鍋をかけなきゃ正統派とは言えないが、腹が減っていたので面倒くさいことはしていられない。七輪で代用した。
 材料と味付けは正統派山形風でシンプルに。スキヤキ風の味付けで、サトイモをメインに牛肉・コンニャク・白ネギを投入した。
 東北地方の芋煮会には、豊作への感謝と同時に、川を大切にしながら川に親しもう、というメッセージが込められている・・・な〜んてこむずかしいことを思い出したりしているうちに芋が煮えた。
 秋の陽を総身に浴びながら、川原で食べる味はまた格別。 “いない”で買った28センチの鍋一杯の芋煮を4人で完食した。


 芋食えば

  腹が張るなり


   加勢蛇川


           
 (隊長)

2005年9月21日水曜日

登山隊大山滝を見下す〈Peak.30〉



 琴浦町には“秘境”と呼ばれる場所がある。旧東伯町を貫流する加勢蛇川の上流部、だいたい大山滝から源流部の駒鳥小屋下のあたりまでの渓谷がその秘境である。秘境には『地獄谷』という名前がつけられている。
 大山滝から登山道を山奥へ、山奥へと40分ほど歩くと、大正時代に植林されたというヒノキ林の中に、大休峠方面と地獄谷方面への分岐点・大休口(おおやすみぐち)がある。地獄谷方面へ歩を進めれば10分ほどで谷底に着く。そこにはず〜っと昔に造られた砂防えん堤があり、6号という冠がつけられている。
 地獄谷のえん堤には造られた順に1号,2号,3号とつけられているそうだ。台風なら○号でもこらえれるけど、秘境にあるえん堤なのだからせめて米国のハリケーンみたいにちゃんとした名前があってもいい。
 ん?今からでも遅くはないか。昭和の初めの頃の築造らしいから、『むつみ』なんてのがいいかも。となると、1号は『いちよ』、2号は『ふたゑ』・・・まてよ。1号は『ひとみ』の方がいいかも・・・でもハイカラ過ぎるか・・・誰も止めてくれんので話を先に進めることにする。
 普通、地獄谷を歩く、と言えばその『むつみ』こと6号えん堤から上流方面へ向かって流れをさかのぼって行く。僕自身これまで何回も地獄谷を歩いたが、すべて『むつみ』と駒鳥小屋の間を上ったり下ったりしただけだ。でも今回はその『むつみ』から下って大山滝まで行こうというのである。地図で見るとわずか500〜600m。なんてことはない。
◇      ◇
 参加者は写真の6人。忘れもしない9月21日。一向平を8時半に出発した。
 歩きなれた道といつものメンバー。目的地はすぐそこ。ハイキング気分で山の話、川の話、海の話、生き物の話その他いろいろしながらブラブラと歩いた。
 1匹目は吊橋の手前にいた。土色をしたイボイボの大きいやつ。そう、ヒキガエルである。正確に言えばニホンヒキガエル。この辺ではガマガエルとも呼ぶ。
 体長(背中の長さ)12、3cm。立派な成蛙だ。喜んだのはロドニー隊員だった。米国ではこんな大きなカエルを見たことがなかったという。小前隊員も加わってケータイを横にしたり斜めにしたりして、あろうことか棒切れでつっついたりもして、なんとかいいアングルで写真を撮ろうと必死になっている。ヒキガエルにしてみれば何とも迷惑な話で、最初はじっと耐えていたが、しまいにはひとっ飛びして大きな体を反転させ、谷の方へ下りていってしまった。
 2匹目は、地獄谷の底に下りる手前で、僕(先頭)のすぐ後ろを歩いていた谷口隊員が足で引っ掛けた。生き物はアリでさえ殺さない谷口隊員だからほんとに偶然だったのだろう。
 後で『ガマの油』を出して治すのかもしれないけど、当のヒキガエルにとってはまたまた大迷惑。何よりも、ロドニー隊員と小前隊員のとめどないシャッター攻撃にはうんざりしていた(たぶん)。
◇      ◇
 足蹴にされたヒキガエルを見送ってすぐ、今度はマムシの夫婦(たぶん)に出くわした。われわれが歩いているすぐそばの崖を、舌なめずりをしながらゆっくり移動しているではないか。ひとつ間違えば大事になっていたかもしれなかった。
 ヒキガエル3匹目は川原。言っておくが、いくら山に足繁く通ったところで、そう何度もヒキガエルに遭えるもんじゃない。年に1,2匹出遭えれば上等である。それがたったの1日で、しかも1時間ほどの間に3匹である。もちろんマムシも珍しい。
 で、そのヒキガエル3号(『みつえ』と名づけようかな)は例のシャッター攻撃に耐えかねて直径50cmほどの石の下に逃げ込んだ。それからの話は・・・あまりにも恥ずかしいので書かないことにする。
 少し飽きてきたけど4匹目の『しのぶ』=写真は、すっかり観念したのか大人しく写メにおさまっていた。


▲この日四匹目のヒキガエル「しのぶ」ちゃん

 いかん。ヒキガエルのことばかり書いていたら残りの行数がわずかになってしまった。そうだ、大山滝を目指したのだった。
 地図を見ると滝までは500〜600m。楽勝のはずだった。でも、途中、高さ10mはあろうかという巨大なえん堤が待ち受けていた。


▲こんな巨大なえん堤があったとは驚きだった

 何号かはわからない。だから名前もつけないことにする。そのえん堤の右岸を迂回するのが骨だった。だから大山滝の上にたどりつくのに、地獄谷に下りてから2時間以上もかかってしまった。でも滝までの渓谷の美しさは地獄谷の中でも別格。まさに秘境中の秘境だった。
◇      ◇
 悲劇は滝からの帰り道におこった。なんと僕がスズメバチに襲われたのである。腕と背中を6か所刺された。スズメバチはおろかハチに刺されたのは初めての経験。痛いの痛くないのって(どっちだいや?)めちゃくちゃ痛くて、車の中で医者を探しながら山を下りたのはいいけど、時は午後2時。104で番号を尋ねながら旧東伯町の医院に片っ端から電話すれどもすれども、休憩中だから対応できないというつれない言葉が返ってきた。



 それでも拾う神あり。浦安駅前の岡田医院に受け入れてもらえることになり、2時間かけて点滴で解毒することになった。ぶっとい針を腕に入れられ、天井を見ながら、ふと考えた。
 「なんで僕が襲われたのだろう」と。
 確かに無謀にも黒いTシャツを着ていた。でも他にも黒っぽい服装をしていた隊員もいたじゃないか・・・。
 そうだ。ヒキガエルだ。
 ロドニー隊員と小前隊員の悪行がヒキガエルのたたりとなって隊長の僕に跳ね返ってきたのに違いなかった。監督不行き届きの代償である。そう言えばヒキガエルのイボイボには毒があるという。マムシももちろん毒持ちだ。そしてスズメバチの毒。うーむ・・・まさに毒のトライアングル。
 1か月たった今でもスズメバチは僕の腕と背中に痕跡を残している。スズメバチ恐るべし。そしてヒキガエル恐るべし。ついでにマムシも恐るべし。

2005年8月23日火曜日

バスはうまい!?のだ〈Peak.29〉



 一般に言うブラックバスのことを、正式にはラージマウスバスという。1925年に北米から神奈川県の芦ノ湖に持ち込まれたこの淡水魚は、80年代後半から盛んになったゲームフィッシングの波に乗って全国に一気に広がった。今では琴浦と大栄のほとんどのため池に住みついている。
 和名はオオクチバス。北米原産だから、当然日本語訳の方が後からついているわけだけど、
 『そのまんまだがな!』とツッコミかけた口をすぐさまつぐんでしまうくらい大きな口をしている。また最近では口が小さめのコクチバスも増えてきているらしい。そのバスをど〜んと食ってしまおう、というのが今回の企画である。
 テレビの釣り番組で、ブランド釣りウェアに全身を包んだ茶髪のお兄さんが、大げさに『ヒット!』とか『ゲット!』な〜んて叫んでいるのをよく見るが、食っているのは一度も見たことがない。
 高級魚の鱸(すずき)そっくりだから、まずいはずはないのだろうけど、なぜか食わない。釣る場所が汚い水だったりするからかなぁ、とも思うけど・・・どうしてだろう。
 な〜んて考えているうちにバスは今年、駆除を前提とした“特定外来生物”(※注参照)に指定されてしまった。
 駆除なんて言葉を使うと、なんか害虫みたいだけど、それもそのはず、特定外来生物に指定されるということは “害魚”とみなされるということなのだ。
◇      ◇
 番組では、大栄町のスイカ選果場の南にある西岡谷池と琴浦町で一番大きな上鳥池でバスを釣った。二つの池とも、水利と水面権は妻波公民館が持っている。
 海や川、湖では誰でも自由に遊べるが、人工の池はそうではない。多くの場合、その昔に池を造った集落や利用組合などによって所有権が設定されており、水面権の所有者の許可がなければ、その池の魚を釣ることはおろか立ち入ることさえできない。事前に山田一公民館長に電話を入れ、番組の趣旨を説明して釣りの許可をもらった。山田さんは「立ち入り禁止の看板なんかおかまいなしで、釣り易くしようと池の水を抜くようなバカもいる」と憤慨していた。
 8月23日。ゴムボートを車の屋根に積んで朝5時に会社を出発。西岡谷池で自称・バス釣り名人の小前隊員と待ち合わせた。釣りはバスに限らず、早朝か夕方がよく釣れる。実は前日の夕方に大雨に見舞われており、放送日から逆算してこの朝がラストチャンス。番組の成否は、小前隊員の太いけど頼りない右腕にかかっていた。
 で、万全を期して下手でも釣れる早朝である。小前隊員は今年1月のかまくらづくりの時も“自称・かまくら職人”と名乗っていたような記憶があるが、まあいい。問題は結果である。あたりがようやく白み始めた5時半前に一投目の波紋が広がった。
 西岡谷池は水が少なく、おまけに藻が池全体に繁殖していた。たまに遠くで、小さな魚がポチャんと跳ねるが、小前隊員の竿には30分経っても何の当たりもなかった。
 「やっぱり、この藻がいけませんねぇ」と小前隊員。
 「藻より腕の問題でないだかいや」と思ったけど、たかが30分ほどの時間で名人失格の烙印を押すのも大人気ないので、小前隊員の意見に従って上鳥池に移動することにした。
◇      ◇
 上鳥池はカーキ色をしていた。前日の大雨の濁りに、もひとつ不気味な何かが混ざった色である。ここも水量は少なかった。空き缶やプラスチック類、グジャグジャにからまった釣り糸などが水際に散乱し、油が浮いている場所もあった。そんな水面を見ながら谷口隊員が「小学校の時、遠足で来たことがある」と懐かしがった。
 バスが釣れるまでの間、僕と谷口隊員、朝倉シェルパ隊長は料理の準備に取りかかった。といっても炭をおこすだけだが、着火材をたくさん使って煙をたくさん出した。「釣れるまで帰ってくるな」という無言の圧力である。


▲「まだ釣れんだかいやっ」ゴムボートを見守る前田隊長と朝倉シェルパ隊長(上鳥池)

 小前隊員の勇姿を撮影しようと一緒にゴムボートに乗り込んだ田村隊員が、あくびをかみ殺しているのが、陸からもよく見えた。そうこうしているうちに役場のチャイムが7時を告げた。
 同時に沖を眺めていた谷口隊員から歓声があがった。待望の1匹目。大きさは25センチほどのチビバス。1匹釣って小前隊員もプレッシャーから解放されたのか、しばらくして今度は40センチオーバーを釣り上げた。自称名人の面目躍如である。
◇      ◇
 バスは、昔から池にいる鮒や鯉などの幼魚を食べつくすから害魚だという。バスにとってみれば、何とも理不尽な話で、無理矢理日本に連れてこられ、普通に餌を食べていたら、いつの間にか“ならず者”扱いされるようになってしまったのだ。
 バス釣りは頭脳と技術を駆使してバスをだまし、疑似餌に食いつかせる、実に高度で面白いゲームだと言われている。ゲームだから食用にせず再び水の中に返す。関係ないけど、オレオレ詐欺は、言葉巧みに現金をだまし取るが、その現金を返すことはない。でもなんかこの二つはとてもよく似ているような気がする。


▲40センチオーバーのバスをさばく小前隊員と「ハラワタとって、塩焼きがええなあ」と注文する前田隊長

 ところでバスはやっぱり旨い魚だった。とくに塩焼きは絶品である。1週間ほどきれいな川で泳がせたら『洗い』もトップランクの料理になりそうだ。
 やっぱり釣った魚は食うべきなのだ。もちろんバスも。命を大切にする気持ち=リリースでは決してない。食う分しか釣らない。言い換えれば、食わない魚は釣らない、ということの中にこそ、命を大切にする気持ちが溢れている。


▲害魚“ブラックバス”に丸呑みされていた害魚“ブルーギル”

※注 特定外来生物
もともと日本にいなかった外来生物のうち生態系などに被害を及ぼすものにつき、飼育・栽培・保管・運搬・販売・譲渡・輸入が禁止された。ヌートリア、アライグマ、カミツキガメ、オオクチバス、コクチバス、ブルーギル、ミズヒマワリなどたくさんの外来の動植物が指定されている。

2005年7月20日水曜日

登山隊“上半期を振り返る”2005年1月〜6月〈Peak.28〉

 いやー、すっかり秋めいてきましたね。2005年も9月に突入、残りわずかとなりました。
 隊員が増えたぞ〜〜と喜んでいたら、強力なウィルス性急性結膜炎(通称:はやり目)なる病気にかかり、撮影ができずに7月の番組が中止になってしまいました。Blog上を借りてお詫び申し上げます。
 というわけで、上半期の登山隊の奮闘ぶりを写真で振り返ります。
 「東大山にヒィーヒィー隊あり」と周囲が認めるまで、ひたすら山川海を歩き続けます。
 応援、声援、罵倒などなど、わが隊に浴びせてください。隊員一同心よりお待ちしています。

January 1月
登山隊 かまくらをつくる

 さんぽ会とヒィーヒィー隊がコラボレートして大きなかまくらをつくりました。
隊員の声:いやー、かまくらづくりはほんと楽しかったなあ。これで生活できたら言うことなしなんだけどなあ(小前)



February 2月
登山隊 浜辺を歩く

 海岸を歩き、ビーチコーミングを楽しみました。
隊員の声:2月は寒いし、山はいやだー。でも番組はつくらないけんし、海でも歩くかなあ。それにしてもゴミが多いなあ。美しい砂浜をヒィーヒィーの手で取り戻すぞ。(前田)


March 3月
早春の一枚岩渓谷へ

 鱒返しの滝上流にある渓谷を訪ねました。
隊員の声:400メートル続く渓谷は、夏だったら、ウォータースライダーで楽しめそうだなあ。(谷口)



April 4月
流木は世界をつなぐ

 環日本海流木アート大賞グランプリ受賞の宮脇寿行さんに話を聞きました。
隊員の声:僕の作品「右足」はなんでグランプリに選ばれなかったのか、教えてください、隊長!(朝倉)



May 5月
ブナは“エラい”のだ

 琴浦町の木にブナが選ばれました。ブナがどんなにえらいのかを実験しました。
隊員の声:ヨーロッパの人たちが、ブナのことを“森の女王様”と呼ぶ気持ちがわかったぞ。女王様、早く朽ち果てて、きのこをわんさか私にお恵みください。(田村)



June 6月
登山隊 “山”へ登る

 標高1,405mのキリン峠を目指しました。
隊員の声:らくちん、らくちん。それにしてもみんな情けなー。これくらいでようヒィーヒィーいっとるでんな。(末石)

2005年6月20日月曜日

登山隊“山”へ登る〈Peak.27〉



 今回は山登りである。かまくらづくりでもビーチコーミングでもブナの実験でもない。由緒正しい山登りである。あまり山に登らない登山隊だから、ほんとに山に登った時は強調しておかんと・・・ということでしつこく言うが、今回は山登りである。
 目指すは大山連峰の一角にあるキリン峠。なんでカタカナなのかはわからないが標高は1,405m。東壁の南の端というややこしい位置にある。
 朝早く出発しなければならなかったので鏡ヶ成キャンプ場に前泊することにした。
 入り口にある管理棟がなんともデカい。扉が閉まっていたので、中にどんな設備があるかはわからないが、2年前、烏ヶ山に登るためにここに泊まったときはまだ工事中で、「キャンプ場に立派な人工物を造ってどうするだい」と苦々しく思ったことを思い出した。
 こんなもん造るくらいなら、烏ヶ山の登山道を直せばいいのに・・・今回も同じことを思いながら、区画のない一番安いサイト(1,000円)にテントを張った。ちなみに一番高い電源付きサイトは3,500円。サイト料の他に1人につき500円とられる。
 前泊するのは、僕と田村隊員、朝倉シェルパ隊長の3人。“トッキョ キョカキョケー”とさえずるホトトギスを笑いながら、明るいうちから晩飯を食い、大人らしく静かに飲み、さっさと寝た。
◇      ◇
 約束通り朝6時にふもとから他の隊員がやってきた。谷口隊員、小前隊員、そして今回初参加の末石ロドニー(R.D.Swasey)さん。琴浦町下大江在住の関西弁を話す大工さんである。
 テントは朝露に濡れていたのでそのままにし、帰りに片付けることにした。チェックアウトは昼まで、と決まっているが、他には客がいないから許してもらおう。
 総勢6人。ちょうど7時に江府町・鍵掛峠近くの県民の森入り口から歩き始めた。
 そこから鳥越峠を越えて琴浦町の地獄谷へ、というのがいつものパターンだが、今回はちと違う。その地獄谷を山の上から眺めるのだ。
 20分ほど歩くとブナの倒木が目立ち始めた。
 去年十数個上陸した台風の置き土産である。このあたりのブナは比較的若い木が多いが、その中でも大きな木が多く倒れていた。ブナの寿命400年、半ばの絶命や悲し・・・。


▲昨年の台風で倒れたブナの根っこをバックに前田隊長(右)と末石新隊員

 撮影に時間がかかり、当面の目標である鳥越峠まで2時間かかった。
 峠のてっぺんは交差点になっている。まっすぐ下りると地獄谷。右折すれば烏ヶ山。左折すれば大山の峰々へと通じている。
 ぞろぞろと6人が登り揃うと、てっぺんのわずかな平場はいっぱいになった。
◇      ◇
 6月の半ばだというのに青空が広がり、様々な野鳥の鳴き声が降り注いでくる。
 “トッキョ キョカキョク”(ホトトギス)
 “ポポッ ポポッ”(ツツドリ)
 “カッコー カッコー”(カッコウ)
 他の鳥に自分が生んだ卵を育てさせる『托卵』3兄弟の鳴き声がみんな聞こえる、と野鳥好きの谷口隊員が喜んだ。
 峠を左折するのは初めてだった。
 都会だろうと田舎だろうと、そして山だろうと、初めて歩く道はなんだかわくわくする。中低木と潅木、急坂と緩坂、いろいろ織り交ぜながら現れて飽きることがない。
 数年前から大山頂上の縦走は禁止されているが、キリン峠はやせ尾根の縦走路が始まる手前にあり、知る人ぞ知る隠れた人気スポットになっているという。
 とはいえ結構つらい。途中から得意の“休憩の合間に歩く”モードに突入した。このモードの長所は、楽なこと。そして短所は、こらえ性がなくなり時間がかかること、である。
 「なんでこんな真っ直ぐな道をつくるだいや」と道にまで文句を言い、盛大にヒィーヒィーあえぎながら難所の急坂を登った。
◇    ◇
 鳥越峠から1時間半ほど。キリン峠に通じる尾根道から見る大山の峰々は絶景だった。中でも槍ヶ峰。圧倒的な存在感で鋭い穂先を天空に向けている。 
 なんせ、近い。山肌がすぐそこにある。崩落が進む大山を象徴するかのように、ときどき石が斜面を転げ落ちる音が聞こえる。


▲崩落を続ける大山の東壁が眼前に迫る。ここから先は南壁と東壁の両側から侵食を受けた、険しいヤセ尾根が続く。

 米子から望む伯耆富士と呼ばれる優美な山容とは対照的な、荒々しいもう一つの姿がそこにあった。
 初めての角度から見る烏ヶ山、矢筈ヶ山、甲ヶ山。残念ながら地獄谷の流れは見えなかったが雪渓がまだ残っていた。
 初夏の東壁をしばし楽しんで、来た道を少し戻り、日陰の平らな場所で昼飯にした。レトルトご飯にレトルト親子丼をかけながらロドニーさんに聞いた。
 「来月は、大栄町の堤でカヌーに乗ってブラックバスを釣り、焼いて食っちゃおうと思ってるんだけど、次も来る?」
 「来るよ」
 「隊員になる?」
 「なるよ」
 う〜む。そーか。とうとうわが隊も国際的になってきたぞ。
 というわけで、今年二人目の新隊員誕生!
 めでたし、めでたし〜。

2005年5月20日金曜日

ブナは“エラい”のだ〈Peak.26〉



 今回はブナ。ヘラブナとかゲンゴロウブナの“ブナ”ではない。樹木のブナである。
 漢字で書くと『椈』または『(木編に無)』。『山毛欅』なんて書き方もある。山の毛の欅(ケヤキ)と書いて、どうしてブナなんだろうと悩んでしまうが、ブとナを3文字にどう割り当てたらいいのかも問題である。
 日本では北海道の渡島半島から九州南部の大隈半島まで分布している。中でも、青森県と秋田県にまたがる白神山地のブナ林は分布面積が広く、その中心部は原生状態のまま残されていることから、1993年に世界遺産に登録された。
 一方、ヨーロッパでは“森の女王様”と呼ばれ、昔から尊敬され親しまれてきているという。人間でもないのに尊敬されるとは大したヤツ・・・ん?女王様だから“ヤツ”ではマズイのか・・・大した“お方”なのである。



 そのブナが、この4月から琴浦町の木に指定された。
 「山は海の恋人」と言われるように、森林が持つ保水力で川を浄化し、さらに海の生き物を育てる。船上山から大山滝にかけて樹立するブナ林は生命力もたくましく、まさにシンボルとしてふさわしい。(広報ことうら5月号)
 というのが選定理由で、自然豊かな琴浦町を象徴する樹木だという。
 同時に発表された町民憲章の最初の項目にも『自然と環境を大切にするまち』と謳(うた)ってある。
 町民憲章と町の木。自然と環境を守ろうという“ダブルの決意表明”がこれから本当に実行されていくのか、水戸黄門のような立場で我が登山隊がチェックしていこうと考えている。
◇      ◇
 なんか路線が変わってきてしまった。元に戻らねば。
 そうそう森の女王様である。なんで王様じゃなくて女王様かはわからないが、細かいことは気にすまい。もともと女王様は好きである。でもややこしいから、これからはやっぱりブナと呼ぶことにする。
 琴浦町でも船上山から大山滝、そして大休峠までブナの原生林が広がっている。規模は世界遺産・白神山地には遠く及ばないが、美しさでは負けない、と思う。
 そのブナ、実にスグレモノである。
 ブナなどの落葉樹は、晩秋に大量の葉を地面に落とす。その落葉は微生物たちの餌になるとともに腐葉土層となって堆積する。そこに水を蓄えるから、ブナの森は“緑のダム”とも“緑の水がめ”とも呼ばれる。この水が動植物の命の源になる。
 また大木が寿命を迎えたり、強風などで倒れると、倒木にはキノコが生え、菌によって分解されて、やがて森の土に還っていく。
 雨が降らなくても、川には絶えず水が流れ、稲をはじめ私たちが口にする多くの植物の命を育みながら海へそそぐ。
 その源は山であり、ブナを中心とした広葉樹の豊かな森のおかげであることは言うまでもない。
◇      ◇
 放送では、ブナの森が持つ保水力と、ヒノキの森のそれを単純なやり方で対比させた。
 ペットボトルで筒をつくり地面に立てて、そこに水を移し込んで浸透するスピードを比べた。別にペットボトルでなくてもよかったが、口の広い透明な筒が『いない』にもどこにもなかったのだからしょうがない。
 勝負は言うまでもなかった。まるで横綱朝青龍 対 幕下力士。「まだなーならんだかいや」というヒノキの森に対し、「なんだいや、もーなーなっちゃっただかいや」というブナの森。


▲森の保水力を実験中の前田隊長と田村隊員。ヒノキの林では、筒に入れた水がしみ込むのに大変な時間がかかった。実験機材はすべて隊長の手作りだ。

 なんだか、いつまでも水が残っている方が保水力があると勘違いしがちだが、当然その逆。地面への浸透が遅いヒノキの森は、雨が地表を流れ、濁り水が直接川へ入り込んですぐに川を増水させる。
 一方すぐしみ込んだブナの森は、降った雨が何年もかかってじんわりじんわり地表に湧き出して、ミネラルを豊富に含んだ清らかな流れに生まれ変わるのだ。


▲ブナの森は“緑のダム”とも“緑の水がめ”とも呼ばれる

 関係ないけど朝青龍といえば、今、世間を賑わせている某相撲部屋のくだらない争いも、どっちがブナで、どっちがヒノキか実際に相撲をとって決着をつければえーのに…。

2005年4月20日水曜日

流木は世界をつなぐ〈Peak.25〉



 ジャジャじゃーん!第1回環日本海流木アート大賞グランプリは、赤碕の宮脇寿行さんで〜す。おめでとうございま〜す。


▲グランプリに輝いた宮脇さんの作品「流れ着いた生き物たち」

 というわけで、4月のこの番組は、またまたビーチコーミングがらみ。
 「また海かいや!登山隊だら〜が」という不満があちこちから聞こえてきそうだったが、流木をちゃんと片付けなければ山には登れないのだ。
 琴の浦の流木のメッカ・逢束海岸でグランプリの授賞式をした。というかムリヤリ貰ってもらった。
 プレゼンテーターは不肖わたくしヒィーヒィー隊長。カメラ1台、観客は隊員のみ。環日本海と銘打った割には、なんとも寂しい授賞式だったが、1回目はこれでよし。先細りになるよりは段々賑やかになっていくほうがいい。
 「カカァからはゴミ扱いされていた流木が展示されたことで、ゴミではなーなりましたけーな」と宮脇さん。



 ちなみにグランプリの賞品は、流木先進地!?の隠岐島へペアで1泊2日のご招待。これまた“環日本海”らしくない質素な賞品だが、これもまた、先細りになるよりは…ということでかんべん願った。
◇      ◇
 ところで大賞展開催中は、会場に大きな瓶(カメ)を置いて、来場してくださった皆さんに意見・感想などを投入してもらった。
 展示が終わって、投入された枚数を数えてみたら、しめて174枚。お願いや強制をすることなく、まったく任意で入れてもらったから、この174という数字が多いのか少ないのかを判断するのは難しいが、1枚として「しょうもない展示会をするな」とか「えーかげんにせーよ」なんていう否定的なものがなかったことが何とも嬉しかった。
 
《流木アート大賞作品展の感想から》
◎波乗りにちょくちょく鳥取に来て、たまに流木を拾ってます。これまでは木の形やきれいさなどで選んでいましたが、発想の転換になりました。子どもが1歳半なので、わかるようになったら動物探しから始めようと思います。(尼崎市30代男)
◎皆さんの作品、楽しく見させていただきました。来年は私も出品できるように、さいさい海に行こうと思います。(県内50代女)
◎流木を拾う楽しさより、題名をつける方が楽しそう。出品者のそんな姿が目に見えるようです。(県内?代女)
◎私自身も海辺の生まれです。子どもの頃はたくさんの流木を拾ったことがあり、昔を思い出して見せていただきました。(県内60代女)
◎日本海で拾う流木が一番個性的なのでしょうね。(県外40代女)
◎自分も海岸に出て探してみたくなりました。(兵庫県30代男)
◎作品の題名を読んで「なるほど」とほほえましく夢が膨らみました。日本海を愛していきたいと思いました。(県内50代女)
◎青谷に住んでいて海も近いのですが、こんな楽しみ方を私もしたくなりました。来年は出品したいです。(県内40代女)
◎楽しい作品展でした。子どもたちも楽しめそうですね。来年も企画されたら参加してみようかなと意欲が湧きましたよ。(琴浦町?代男) 
◎流木アートはびっくりです。漂着物は海と生物、人間の博物誌。(中国からの研修生)
◎酒本さんご一家の明るいほのぼのとした、また自然に親しみ自然を愛する心に敬服します。愛海さん、海遊さんの成人された姿を拝見したいものです。(琴浦町70代男)
◎たいへん良い取り組みだと思います。これを機に海岸のゴミに関心を持っていただけたらいいですね。(琴浦町 女)
◎皆さんの想像力・ヒラメキに脱帽です。毎年やってください。(琴浦町 男)
◎アーと驚くかと思って来ましたが、しんわりと楽しむことができました。素晴らしい企画です。(琴浦町 男)
◇      ◇
 他にも事務局を感激させるコメントが多々あったが、こんどこそ「えーかげんにせーよ」と言われそうだから止めとかんと。
 で再び逢束海岸。
 隠岐島1泊2日ペア旅行の目録を片手に宮脇さんが続けた。
 「角のとれた流木を触っていると、えも言われぬ心地になるだんなぁ〜」


▲逢束海岸にすっかり溶け込んでいるグランプリ受賞者の宮脇さん。いつもこうして流木を拾い集めているそうだ

 “好きこそ物の上手なれ”は、ちょっと使い方が違うような気もするが、流木を、そして故郷の海を愛しているからこそのグランプリ受賞となったのだろう。
 ザザー・・・ザザー・・・チャップン・・・寄せては返す、穏やかな潮騒が宮脇さんを祝福した。

2005年3月8日火曜日

早春の一枚岩渓谷へ〈Peak.24〉



 3月8日、午前9時。船上山ダムの南側に車を停めた。鱒返しの滝(3段滝)の入り口まで車で行く予定だったが、雪が多くて、入り口の300mほど手前で降りて歩き始めた。
 先回、TCBのカメラが鱒返しの滝を訪ねたのは2年前の冬。ズルズル滑る勝田川に苦しみながら、下段の滝を撮影した。
 その番組の画面には、当時はただの野鳥マニアだった(ん?今でも同じか!?)谷口隊員しか映らなかったが、僕と浜本準隊員も同行していた。そして撮影は田村隊員が担当していたから、初代正規隊員が勢揃いしていたわけだ。
 そして、その番組がきっかけとなって2か月後にこのヒィーヒィー登山隊シリーズが始まったのだから、鱒返しの滝は、思い出の滝と言うか因縁の滝と言うか・・・ま、どっちでもいいか。
 日なたの雪はすっかり消えていたが、日陰にはまだ30センチほどの雪が残っていた。鱒返し滝橋を過ぎるとすぐ、鱒返しの滝と千丈滝の案内板が現れた。
 まずは杉林の中を抜けて鱒返しの滝(上段)の展望台を目指す。幸いなことに杉には花粉がついておらず、くしゃみに苦しむこともなさそうだ。
 林の中につづら折れに切られた登山道には残雪が5センチほど。ざらめ状になった雪はふんばりが効かず、滑って歩きにくかった。
◇      ◇
 ところで今回の目的地は鱒返しの滝ではなく、その上方に広がる一枚岩渓谷。滝と同じく約110万年前の大山の噴火でできたと言われている由緒正しい渓谷である。


▲ます返しの滝の上部、一枚岩渓谷で。ここは、何万年もの時をかけ、水の流れによって削られてできた岩肌が続いている。

 う〜ん、110万年前か・・・琴浦、大栄あたりはいったいどんな様子だったのだろう。大山が噴火していたんだから、火山灰がどさどさ降っていたんだろうなぁ。
 なんて思いをめぐらしてるうちに、上段の滝の展望台に着いた。県道からはたった20分ほどである。
 以前、『らくらく山歩会』で一枚岩渓谷を歩いた谷口隊員によると、この展望台から渓谷までは、ヒィーヒィー言うほどのこともないらしい。
 今年に入って、1月はかまくらづくり、2月はビーチコーミングと、ヒィーヒィー登山隊だと言いながら、ひとつもヒィーヒィー言っていない。
 なんだか楽をし過ぎているような気がして、ちょっとだけ後ろめたい。でも、ちょっとだけである。
 2年ぶりに見る上段の滝は相変わらず優雅だったが、中央付近の幅が広い菱形のような姿が、なぜだか僕にはテレビでしか見たことのない口子(くちこ=ナマコの卵巣を干した珍味)に見えたのも相変わらずだった。
 展望台からは、備え付けのロープをつたって一気に、メインの登山道まで「わっせわっせ」と登った。
◇      ◇
 登山道は、すぐに千丈滝方面と一枚岩渓谷方面とに分岐していた。進路はもちろん左側の一枚岩渓谷方面。上段の滝の左岸を巻くかたちで登山道が切られている。でも、そっちはまるでわざと登山道に雪を盛ったかように、半端じゃない深さの雪が残っていた。
 でも、ひるんではいられない。僕は隊長である。たくさん雪があるからといって、先頭を譲るわけにはいかないのだ。
 雪の深さは腰のあたりまで。というか股で止まるから実質的には股まで。ズボッ、ズボッと1本ずつ足を引き抜きながら歩を進めた。
 「ヒィーヒィー言うほどのこともない」はずだったのに〜と愚痴りそうになりながらも、ズボッ、ズボッ、ズボッ。
 「でも、久しぶりにヒィーヒィー隊の本領発揮だな」と、少しだけ感じていた後ろめたさがとれた喜びを感じていたら、後ろから後ろめたさのかけらもない声が飛んできた。
 「隊長、歩幅が狭くて歩きにくいっすよ」
 なんと隊員めらは、僕の足跡をトレースするだけで、なんら建設的な行動に取り組んでいなかったのである。
 親の心子知らず。『隊長の心、隊員知らず』とはこういうことを言うのだろう。
◇      ◇
 100mほど続いた豪雪地帯を抜け、わが隊はまた杉林に突入した。
 正しく言えば、杉林の中での悲惨な雪中行軍に突入した。
 豪雪地帯を抜けた時点で、登山道は一枚岩渓谷と並行しており、左側の斜面を下っていけば良いことはわかっていたが、渓谷は400mにわたって続いているのもわかっていたから、とにかく下りやすい場所を探した。
 でも、なかなかない。
 とりあえず沢筋と思われる場所を当たりをつけて下り始めたのだが・・・これが大きな間違いだった。
 雪で折れた杉の枝を雪が隠し、雪の下で中空になった場所にはまったら胸まで雪がくるという、あんまりありがたくない雪づくしが30分も続いたのだ。
 隊員たちからは「ヒィーヒィー」ではなく「ギャー」と「痛ッ」。
 やはり110万年はただものではなかった。


▲滑らかな岩肌が続く渓谷。夏場はウォータースライダーで楽しめそうだ

2005年2月16日水曜日

登山隊 浜辺を歩く〈Peak.23〉



 ビーチコーミング=Beach combing=櫛でとかすように浜辺を探索すること。
 毎年2月はビーチコーミングと決めたわけでもないけど、去年に引き続き、なぜか今年も浜辺を歩くことになってしまった。
 2月の雪山は危険すぎるし、川遊びも時期はずれ。撮影に1日しかさけないとなれば、お気軽・お手軽なビーチコーミングしかないのだ。
 というわけで2月16日に琴浦町の箆津海岸に集結した。ん?集結した、なんて書くと、いかにも大人数そうだけど、実は3人。恥ずかしながら我がヒィーヒィー登山隊の最少催行人数になってしまった。
 だから、というわけでもないのだが、勝田川と黒川の間の海岸はゴミであふれていた。この辺の海岸ゴミといえば、ハングル製品と漁具が主流だが、ここはなんと生ゴミまであるではないか。
 黒川沿いと勝田川沿いの両方から車で海岸にアプローチできるここの海岸は、生活ゴミの絶好の捨て場になっているのかもしれない。それにしてもこんな有様では“琴の浦”の名が泣く。
 しかし我が隊もなめられたもんである。去年の逢束海岸では、大きな松の木が半分砂に埋まって、恥ずかしそうにくねくねと身をよじりながら歓迎してくれたのに…今年は生ゴミかよ!
 ビーチコーミング自体、興味のない人から見れば、ゴミを拾ってるようなものなのだから、文句言うな!と言われるかもしれないけど、それにしても生ゴミはいけんで。
◇      ◇
 箆津の海岸には、これといった掘り出し物がなかった。おまけに今にも雨が落ちてきそうな雲行き。歩かなきゃビーチコーミングじゃないよなーと反省しながらも、車で逢束海岸へ急いだ。
 野鳥の次に流木を愛している谷口隊員によると、逢束海岸、とりわけ防波堤の西側は、流木狙いのビーチコーマーにとっての“メッカ”だという。


▲海岸には大きな流木も打ち上げられる(琴浦町逢束海岸で)

 『漂着物学入門』(中西弘樹著=平凡社新書)という本に、大昔の大陸方面からの日本への出入国を調べたデータが掲載されている。
 それによると、日本への入国はすべて秋から冬にかけてであり、とくに10月と11月に多い。これは、冬の季節風が吹き始め、大陸から日本海を渡って航海してくるのに好都合だったからのようだ。
 逆に出国した時期は3月〜8月がほとんど。この時期は南の風が吹き、日本から大陸に向かいやすかった。この傾向は遣唐使にもあてはまるのだという。
 なるほど流木も冬の時期が一番多い。季節風にさらされ、日本海の荒波にもまれ、身を削りながら、ハングルその他の外国ゴミとともに琴の浦にたどり着く。
 “メッカ”には案の定先客がいた。赤碕のMさんだ。知り合いの田村隊員が近寄って話を聞いたら「今日はろくなもんがない」らしい。
 ろくなもんがなかった後の浜を歩くのは、なんとも情けない話で、「ま、価値観は人それぞれだから…」と強がって探し始めたものの、確かにろくなもんがなかった。
◇      ◇
 ところで、この番組表が配られる頃には、TCBホールで『第1回 環日本海流木アート大賞』の展示会が開かれているはずだ。
 『環日本海』はちょっと大げさかな、とは思ったが半分はシャレ。でも残りの半分は大真面目である。
 海岸を歩くと、確かにハングルゴミや廃棄漁具が目立つが、あくまでも“目立つ”だけで、割合的には川から流れ込んだり直接捨てられたと思われる生活関連ゴミが圧倒的に多いのだ。
 ということは、3〜8月には南風に乗って、日本のゴミもかなり出国しているわけで、韓国やロシアのビーチコーマーたちは、日本語ゴミの漂着に辟易しているのかもしれない。


▲海岸に打ち上げられた漂着物を物色する前田隊長(大栄町大谷海岸で)

 この『環日本海流木アート大賞』は、流木を使った作品を展示し、その中からグランプリを選ぶ。しかしそのことだけが目的ではない。
 作品をつくるために、海岸を歩き、流木を拾い集めることで、もう一度ふるさとの海を見つめ直してほしいのだ。
 今年は第1回である。ということは、2回目がたぶん、ある。
 「えーかげんにせー」と言われても3回目も4回目も開きたい。
 何をかくそう、この原稿を書いている時点では、まだやっと実施要項ができただけ。1回目すらちゃんと開けるかどうか、まったく自信がない。
 でも、やっぱり5回目は節目だから韓国で開くべきなんだろ〜な〜。