昔、といってもほんの40年ほど前。僕がまだ子どもの頃のことだ。
雨がたくさん降って加勢蛇川に大水が出ると、夜中にゴーッという水の音に混じって、ガラガラと大きな石が転がる恐ろしげな音が聞こえてきたのを覚えている。
2、3日たって水の濁りがとれてから川へ行ってみると、それまでとは川姿が一変しており、探検気分でわくわくしながら川原を歩いたものだ。
“ガラガラ”の原因だった背丈ほどもある石が、まるで以前からそこにあったように、少しだけ砂に埋もれて配置され、それまであった淵が玉砂利で埋まっているかと思えば、別の場所に淀みができていたりした。
そんな正しい川原が、砕石業者によって奪われたのは、これまたほんの35年前。その後のえん堤工事が川原を含めた加勢蛇川破壊を完璧に仕上げた。
公務員的発想により、大水が出たときに魚道やえん堤が壊れないように、大きな石は工事の段階で取り除かれてしまった。
えん堤によって支配された急峻で直線的な流れは、砂を一気に海へ流す。転がる石がないから、なくなった砂も補充されない。そして水も浄化されない。
こうして加勢蛇川は、川とは名ばかりの図体のでかい水路として、世間から身を隠すように、雑草に埋もれながら細々と生きながらえてきたのだ。
10月15日。野井倉橋の上から見た加勢蛇川は、加勢蛇川だけど加勢蛇川じゃないみたいだった。「わけがわからんこと言うな」と叱られそうだけども、別人ならぬ“別川”になっていたのだ。
谷口隊員がいみじくも言った。
「これは黒尊川ですか?」
黒尊川とは高知・四万十川の最も美しい支流のこと。去年、この登山隊で高知遠征したときに半日ほど遊んだ。心の中まで透かし通されるような清冽さが今でも忘れられない。
「川は曲がっていなければ・・・」
「川には砂がなくては・・・」
▲野井倉橋の上から見た加勢蛇川。黒尊川みたいだった
番組などを通じて、何度も何度も訴えてきた川の最低条件。野井倉橋周辺だけかもしれないが、曲がりなりにもそれをクリアした加勢蛇川が目の前にあった。
橋の上手にある要塞のようなえん堤から、下手のこれまた要塞のようなえん堤まで距離は300mほどだろうか。橋の上手では右岸側にあった流れは、下手では淀みをつくって左岸側を流れている。
広い川原を横切る流れは、当然のように曲がり角の内側に砂州をつくっていく。上流から運ばれてきた大小の石はピカピカに洗われ、砂も白く生まれ変わっていた。
▲大法の川原 隊長の子どもの頃のホームグラウンドだった場所
今でも夏になると、時々「川に行って遊びたいなぁ」と思うことがある。しかし、実際に川原を目の前にすると、その意欲がしぼんでしまう。水の中以外に身をおけそうな場所は、えん堤のコンクリートの上しかないのだ。昔あった石と砂の川原なんて死んでもない。表現が不適切だとまたまたお叱りがきそうだが、やはり、「死んでもない」のだ。
皮肉にも、水が冷たく感じられる頃になると、草の勢いも少し衰え、長靴ならなんとか踏み入ることができるようになる。
その川原の植物事情がここ数年で様変わりしている。2,3年前まで、とくに中流域と下流域では、葦とクズが縄張りを分け合いながら二大勢力として幅をきかせていたが、昨年あたりから新興勢力が一気にのしてきた。
カナムグラ(金葎)とセイタカアワダチソウ(背高泡立草)である。カナムグラはつる状で痛いトゲのあるやつ。
セイタカアワダチソウは、アレルギーの元になる外来植物として有名になった。毒を出して隣の植物を枯らしながら自らの陣地を広げていく、まるでどこかの性悪女のような嫌われ者である。
▲セイタカアワダチソウ
クズとカナムグラには、繁殖し過ぎると自ら枯れていく自浄能力があるようだが、“性悪女”にはつける薬がないと言われている。やっぱり春先に川原を焼いて、悪の芽を摘み取るしかないのだろう。
干上がりそうな水溜りで、タカハヤとドンコ、サワガニを獲った。大水のあとは、川原のあちこちに水溜りができて、取り残された魚がバチャバチャ暴れていたりする。時にはとんでもない大物がいることも。川遊びの楽しみのひとつである。
逢束の河口で、1年前と同じようにゴムボートを漕いだ。野井倉と大法と同じように、大水に洗われて、美しく変身しているはずだった。
そう、はずだった。だけど、現実は厳しかった。汚いどころか臭かった。
番組の中でも言ったが、川原が荒れているから、公共心のかけらもない不心得者が何でも捨てるのだ。
“曲がりなり”でもいい。川は曲がりさえすれば、なんとか川らしい川になる。しかし、不心得者の曲がった性根はどうしたらまっすぐになるのだろう・・・。
雨がたくさん降って加勢蛇川に大水が出ると、夜中にゴーッという水の音に混じって、ガラガラと大きな石が転がる恐ろしげな音が聞こえてきたのを覚えている。
2、3日たって水の濁りがとれてから川へ行ってみると、それまでとは川姿が一変しており、探検気分でわくわくしながら川原を歩いたものだ。
“ガラガラ”の原因だった背丈ほどもある石が、まるで以前からそこにあったように、少しだけ砂に埋もれて配置され、それまであった淵が玉砂利で埋まっているかと思えば、別の場所に淀みができていたりした。
そんな正しい川原が、砕石業者によって奪われたのは、これまたほんの35年前。その後のえん堤工事が川原を含めた加勢蛇川破壊を完璧に仕上げた。
公務員的発想により、大水が出たときに魚道やえん堤が壊れないように、大きな石は工事の段階で取り除かれてしまった。
えん堤によって支配された急峻で直線的な流れは、砂を一気に海へ流す。転がる石がないから、なくなった砂も補充されない。そして水も浄化されない。
こうして加勢蛇川は、川とは名ばかりの図体のでかい水路として、世間から身を隠すように、雑草に埋もれながら細々と生きながらえてきたのだ。
◇ ◇
そんな加勢蛇川が、一時的ではあるにせよ生き返った。その立役者は、この秋何個もやってきた台風である。10月15日。野井倉橋の上から見た加勢蛇川は、加勢蛇川だけど加勢蛇川じゃないみたいだった。「わけがわからんこと言うな」と叱られそうだけども、別人ならぬ“別川”になっていたのだ。
谷口隊員がいみじくも言った。
「これは黒尊川ですか?」
黒尊川とは高知・四万十川の最も美しい支流のこと。去年、この登山隊で高知遠征したときに半日ほど遊んだ。心の中まで透かし通されるような清冽さが今でも忘れられない。
「川は曲がっていなければ・・・」
「川には砂がなくては・・・」
▲野井倉橋の上から見た加勢蛇川。黒尊川みたいだった
番組などを通じて、何度も何度も訴えてきた川の最低条件。野井倉橋周辺だけかもしれないが、曲がりなりにもそれをクリアした加勢蛇川が目の前にあった。
橋の上手にある要塞のようなえん堤から、下手のこれまた要塞のようなえん堤まで距離は300mほどだろうか。橋の上手では右岸側にあった流れは、下手では淀みをつくって左岸側を流れている。
広い川原を横切る流れは、当然のように曲がり角の内側に砂州をつくっていく。上流から運ばれてきた大小の石はピカピカに洗われ、砂も白く生まれ変わっていた。
◇ ◇
大法の川原に下りた。何を隠そう、子どもの頃、僕のホームグラウンドだった場所だ。とは言っても、その頃とはまったく川姿が変わってしまっている。▲大法の川原 隊長の子どもの頃のホームグラウンドだった場所
今でも夏になると、時々「川に行って遊びたいなぁ」と思うことがある。しかし、実際に川原を目の前にすると、その意欲がしぼんでしまう。水の中以外に身をおけそうな場所は、えん堤のコンクリートの上しかないのだ。昔あった石と砂の川原なんて死んでもない。表現が不適切だとまたまたお叱りがきそうだが、やはり、「死んでもない」のだ。
皮肉にも、水が冷たく感じられる頃になると、草の勢いも少し衰え、長靴ならなんとか踏み入ることができるようになる。
その川原の植物事情がここ数年で様変わりしている。2,3年前まで、とくに中流域と下流域では、葦とクズが縄張りを分け合いながら二大勢力として幅をきかせていたが、昨年あたりから新興勢力が一気にのしてきた。
カナムグラ(金葎)とセイタカアワダチソウ(背高泡立草)である。カナムグラはつる状で痛いトゲのあるやつ。
セイタカアワダチソウは、アレルギーの元になる外来植物として有名になった。毒を出して隣の植物を枯らしながら自らの陣地を広げていく、まるでどこかの性悪女のような嫌われ者である。
▲セイタカアワダチソウ
クズとカナムグラには、繁殖し過ぎると自ら枯れていく自浄能力があるようだが、“性悪女”にはつける薬がないと言われている。やっぱり春先に川原を焼いて、悪の芽を摘み取るしかないのだろう。
◇ ◇
大法付近は水量が多く、数か所で分流していた。でも基本的にはえん堤の範囲内に収まって大人しく流れていた。ただ、川底はきっちり洗われていた。干上がりそうな水溜りで、タカハヤとドンコ、サワガニを獲った。大水のあとは、川原のあちこちに水溜りができて、取り残された魚がバチャバチャ暴れていたりする。時にはとんでもない大物がいることも。川遊びの楽しみのひとつである。
逢束の河口で、1年前と同じようにゴムボートを漕いだ。野井倉と大法と同じように、大水に洗われて、美しく変身しているはずだった。
そう、はずだった。だけど、現実は厳しかった。汚いどころか臭かった。
番組の中でも言ったが、川原が荒れているから、公共心のかけらもない不心得者が何でも捨てるのだ。
“曲がりなり”でもいい。川は曲がりさえすれば、なんとか川らしい川になる。しかし、不心得者の曲がった性根はどうしたらまっすぐになるのだろう・・・。