2006年12月30日土曜日

仮想・初日の出を見に行く〈Peak.45〉



 2006年12月30日朝4時20分。目が覚めるとすぐに2階の部屋から窓の外を見た。真っ黒の空に星がひとつも探せない。
 三日前からしつこく降り続いていた雨はなんとか上がったようだ。
 下の道の路面に目を凝らすと、アスファルトのくぼみに水溜りらしきものが黒く浮かんでいる。でもそれ以外の部分は灰色に乾きかけているようだった。
 この日は『ヒィーヒィー隊元日特別番組』の収録日。正月らしく初日の出を拝もうという企画に、隊員全員が琴浦町の地蔵峠展望台に揃うことになっている。
 「本来なら初日の出なんか生中継せないけんよなぁ・・・」とは思っても、TCBの機材ではどう逆立ちしても無理不可能。仮想・初日の出を撮影するために、晴れそうな日をギリギリまで待ったけど、年内には晴れそうもなかったので、大晦日前日に決行するはめになってしまった。
 30日の日の出時間は7時15分であることはわかっていたから、ロケの準備や本番の所要時間から逆算すると、5時には展望台に着かねばならなかった。
◇      ◇
 地蔵峠へ向かって車を走らせると、下三本杉あたりから道の両脇が白くなった。
 中津原からは道も白くなった。とは言っても水雪。タイヤが軽く踏み潰していくから何も問題ない。
 野井倉を過ぎ、地蔵峠へ向かうくねくね県道も前日までの除雪が行き届いており、路面には5cmほどしか積もっていなかった。
 ちなみにこの日のロケは、旧地蔵峠から野井倉方面に下りている中国自然歩道(約600m)を逆に登って行き、地蔵峠展望台で仮想・初日の出を拝む計画なのだ。
 集合場所には10分遅れて着いた。
 ま、このくらいの遅刻なら許容範囲だなと思いながら車を下りたら、小前・スエイシー・浜本の各隊員とシェルパ隊長が待っていた。
 ていうことは、う〜む・・・隊員その㈰(田村隊員=右ページ『隊員の横顔』参照)とその㈪(谷口隊員=同)がまだ来とらんではないか。
 「カメラは僕が持ってきたですけど、三脚は田村さんの車に積んであるですよねぇ」とシェルパ隊長。
 仕方ない。その㈰は家も遠い(県西部在住)ことだしなぁ・・・と思っていたら電話が鳴った。イヤな予感。案の定その㈰からだった。
 「すみませ〜ん。いま家を出たとこです。あと1時間はかかりま〜す」
 聞けば時間通りに起きたことは起きたのだけど、二度寝してしまったという。
 時計を見ればすでに5時半。どさくさまぎれに、その㈪が合流してきたので、その㈰と三脚抜きで撮影にかかることにした。
◇      ◇
 スタート地点の積雪は40cmほどあった。県道から尾根に取り付くための狭く急な階段は、ほとんど段々がわからなくなっていた。
 県道の路面で最初のシーンを撮影した。
 本来なら、三脚の上にカメラを載せてその㈰が撮影し、その横でシェルパ隊長がマイクと照明を持つはずだった。
 でもそれはかなわぬ夢というか、絵に描いた餅というか、シェルパ隊長が直面した現実は厳しかった。
 照明ライトをカメラに固定し、右肩にはそのカメラ、そして左肩には照明のバッテリーを自ら担がなければならないのだ。その重さはなんと約20キロ。
 「ちょっと厳しいよなぁ」と思いながら腕時計を見たら6時をまわろうとしていた。
 躊躇してはいられない。太陽は待ってはくれない。早くカメラを回して登り始めねば・・・。
 その時だった。こちらを向いたライトの強烈な光の向こうから、「ううっ・・・腹が痛い」という声が聞こえてきたのだ。
 ライトの向こうにいるのは、どう考えても一人しかいなかった。
 シェルパ隊長が使えないとなると、この日のロケが流れてしまう。何のために朝5時に集合したのか・・・。
 「ビールの飲みすぎでないだかいや」
 「日頃の行いが悪いけだがな」
 心ない声が静かに飛んだが、シェルパ隊長は浜本隊員からティッシュ箱を受け取ると、さっさと闇の中へ消えていったのだった。
◇      ◇
 県道から地蔵峠までの道のりは約600m。最初の100mほどは上り勾配がきつく、雪をラッセルしながら歩くためかなり苦労したが、途中からは慣れた。というか、歩く距離の短いのがわかっているから根気が持つのだ。
 腹の中の悪霊を退治したシェルパ隊長は、体調が戻ってきたのか、かなりハードな撮影をこなしながら元気よく歩いている。
 本来ならシェルパ隊長が持つはずのマイクや予備バッテリーその他の付属品は、その㈪が持っている。因果応報、弱肉強食、遅れた罰だから仕方ない。


【重い機材を持って歩くその㈪】

 ウサギやキツネ、イノシシの足跡が現れては消えていく。
 小前隊員が息子の空くん(6歳)を連れてきていた。僕がヒーこら言ってラッセルしたすぐ後を元気よくついてくる。きっと彼は、とってもアウトドア度の高い少年になっていくに違いない。ぜひ友達を巻き込んで、自然の中で遊ぶことの楽しさを実感しながら、体験を積み重ねていってほしい。

【小前隊員は息子の空(そら)君を同伴】

 な〜んて考えたりしていたら地蔵峠に着いた。6時40分。
 東の稜線の雲がとれず、仮想・初日の出はやっぱり拝めなかったけど、雨・雪・風が一切なしの穏やかな朝だった。


【地蔵峠の名前の源になったお地蔵さま】


【一丁地蔵】

 しばらくしてその㈰も合流して久しぶりに全員で記念撮影。いまいち盛り上がりに欠けた元日特別番組のロケを終えた。
 そういえば今回のこの原稿もなんだか盛り上がりにかけとるし、何にもオチがないので、ここで終わるかな。すまん。

2006年11月23日木曜日

われらは“やぶこぎ”登山隊〈Peak.44〉



 一向平を出て、吊り橋を渡り40分で大山滝へ。大山滝から大休口(おおやすみぐち)を経て、ヒィーヒィー言いながらつづら折れの急坂を1時間半登って横手道に出る。そして息を整えながら20分歩いて大休峠に着く
 琴浦町の最深部を通って大山寺へ至るこの道の歴史は古く、平安の頃から『大山道』と呼ばれていた。今では中国自然歩道として整備されている。
 その大山道を歩くたびに、というか、ある場所を通るたびにいつも気になっていたことがあった。
 その場所とは、横手道に出る30分ほど手前にある『三本杉分かれ』と名づけられた三叉路。とは言っても、枝道の方にはずっと前から《通行止め》の標識がかかっており、道の名残らしき跡がやっと確認できるだけの“なんちゃって”分岐点なのだ。
 でもそこは大休口から大休峠までの中間点付近にあたり、急坂をゼェーゼェーないしはヒィーヒィー言いながら上ってきた登山者が腰をおろして休憩するポイントになっている。
 で、目の前に『三本杉分かれ=この道は通れません』なんて書いてあったりするからずっと気になっていたのだ。
◇      ◇
 その昔、大山寺へ行くのに、人や牛馬が大山道を歩いていた時代のこと。な〜んて言うと江戸時代か?と思いがちだけど、れっきとした昭和も含まれている。
 三本杉より里の集落の人たちは、大休峠(大山寺方面)へ行くのに、一向平から大山滝、大休口を通って行くよりも、加勢蛇川の支流が流れている山川谷を通った方が早かった。だから三本杉の人たちは、行きも帰りも山川谷ルートを歩いた。
 旅は道づれ世はなさけ??行きはバラバラでも帰りは、関金や野井倉の人たちと一緒になることが多い。でも三本杉の人は、分岐点にさしかかると、「バイバイ」と言って道を分かれていく。だから『三本杉分かれ』と言われているのだそうな。
 なら、我々も歩いてみるしかない。というわけで放送日を翌日に控えた11月23日、祝日でしかも雨まじりだというのに林道の終点に車を乗り捨て歩き始めた。
 ほんとに久しぶりに浜本隊員の顔があった。2005年の1月、ジャンボかまくらをつくって以来だから1年10か月ぶり。本人の話では「仕事の都合がつかなかった」らしいが、隊員の間では「くさい飯を食っていたらしい」という噂も流れた。
 山川谷の登山道を歩くのは、個人的には1年半ぶり。ヒィーヒィー隊としては2003年7月の『新滝発見』以来だった。
◇      ◇
 この登山道は最初の1時間が何ともうっとおしい。手入れがされていなくて昼間でも暗い杉林の中を、黙々と修行僧のように歩かなくてはならないのだ。別に黙々と歩かなくてもいいのだろうけど、圧迫感のある人工林は、みんなの心と口を閉ざしてしまう。
 雪の重みで折れた杉の木が登山道をふさぎ、行く手を横切るいくつもの沢が、ひとつの例外も許さず、道を流し崩していた。
 日本山岳会山陰支部製作の概念図(地図を略して山や川の位置関係や登山道をわかりやすくしたもの)によると、杉林を抜けてしばらく歩き、山川谷の本流を渡って、尾根を1kmほど上っていくと『三本杉分かれ』に出るはずである。でも、その概念図には、このルートは“道のないコース”であることを示す表記がされていた。
 杉林を抜けるとすぐあったはずの熊笹の森が、道の部分だけきれいに刈られていた。
 1年半前に来たときは、顔のあたりまである熊笹をかきわけながら進むのに随分苦労した記憶がある。
 いったい誰が何のために・・・な〜んてことはどうでもいい。自然林の中を気持ちよく歩けるのに何の不満があろうか。
 その笹刈り道をしばらく行くと、大きなブナが横たわっており、きれいなナメコがひとかたまり生えていた。

 よく見ると、その倒木には生え腐れしたナメコがたくさん残っている。なんとまぁもったいない。それにしても、この道をいかに人が通っていないかがよくわかる。
◇      ◇
 30分ほど歩いて山川谷の本流を渡り、僕も隊員たちも歩いたことのない未知のゾーンに突入した。
 踏み跡は当然なかった。でも、積雪期の登山道判読赤テープが木の枝にしっかり残されていたので、比較的すんなり進んでいった。
 どこの誰だか知らないけれど、月光仮面のようなお方が刈られた “熊笹5分刈街道”も途中からまたまた出現した。(注:少し伸びていたから5分刈なのだ)
 しかし世の中はいつまでも甘くなかった。月光仮面の道はいつしか消え、先頭を歩く僕の体はいつの間にか身の丈ほどの熊笹に囲まれていた。

 目の前の熊笹を右手でかき分けながら、前のヤツを左足で踏み倒す。次は前のヤツを右足で踏んで左手でよけて行く。
 「テープはどこだ!?」
 熊笹ヶ原に怒声が響く。
 「あそこにあります!」
 「どこだ?見えんがな!」
 こんな繰り返しが300mほど続いただろうか。いつしか笹はまばらになり、照葉樹の低木やブナの幼木が目立ち始めた。と思ったら左前方に見慣れた標識が見えた。


 ガスがどんどん濃くなってきていた。大きなミズナラの木が、突然現れては消えていく。
 僕は心の中で「この道は通れましたよ」とつぶやいた。

2006年11月15日水曜日

年末恒例!? 登山隊この一年〈Peak.43〉

 なんとなぁ…また1年たってしまった。また歳とるだなぁ…。
 去年も書いたような気がするけど、この前正月だったと思ったら、あっという間に年末になってしまった。
 というわけで今号は年末恒例企画。矢のように過ぎ去ったヒィーヒィー隊の2006年を振り返ってみようかな。
◇      ◇
 1月の放送は、100円バスに乗って三本杉で降り、そこから歩いて一向平を目指した。
 途中、道ばたに一本の赤梨の木を見つけた。樹高が柿の木のように高く、それまで車で幾度となく走っても見落としてしまっていた木。歩かなければ何も見えないことを改めて思い知らされた。

 2月は冬の定番、ジャンボかまくらづくり。今年も『らくらく山歩会』のメンバーに手伝ってもらった。
 歳はいっても(失礼!)、かまくらづくりで子どものようにはしゃげるのはとても素敵なこと…さすが山おんな。
 出来上がったのは直径4m、高さ3mのジャンボなやつ。11人が中に入り、七輪を囲んでお汁粉とカキ餅をいただいた。
 山歩会のメンバーに誘われて参加してくれた英語指導助手のキャサリンは、米国式の3段雪だるまをつくった。

 4月は大河ロマン。僕の母校・東伯小学校の校歌にある♪要害山を切〜りひ〜ら〜き♪の『要害山』の歴史をひもといた。
 な〜んて言うとたいそうだけど、なんで“要害”の名が付けられたのか知りたかったのだ。
 で、なんでかというと…戦国時代のある時期、この地が尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となり、羽衣石城(湯梨浜町)を拠点とする尼子氏が妙見山(琴浦町大杉)に出城を構えた。そのとき八橋城を支配していたのは毛利氏で、尼子氏が毛利氏の攻撃に備えるため、公文にある小さな山を“要害(=城砦)”として位置づけた…からなのだ。
 中学・高校と歴史を教えられても、まったく身に付かなかったけど、ちょっとだけ興味を持って調べてみれば、すぐに面白くなって、本格的に郷土史を勉強しちゃおかなぁ、なんて気にもさせられた。
◇      ◇
 5月から8月は4連チャンで川関係。暑いときは水の中に限る、こともあるのだけれど、ちゃんとした理由もある。
 『山が海をつくる』ことは、近年あちらこちらで声高に叫ばれているが、山と海をつなぐ川のことが少しおろそかにされている気がしてならない。だからわが隊は川にこだわるのだ。
 洗川では赤バエを釣った。子どもの時に加勢蛇川で見て以来だから、実に35年ぶりくらいの対面。食べて美味しい魚ではないけど、橙色と群青色を基調にした派手目の体色がなんとも懐かしかった。

 由良川ではカヌー。加勢蛇川では小魚を追いかけた。泥バエ、ウグイ、ゴズ、サーランドジョウ、ザッコ…それなりに魚種はいるが、なんとも密度が薄い。アユの姿は河口近くでしか見つけることができなかった。
 川の中の生き物は、その川の現在の実力を映し出す鏡のようなもの。アユのいない川は“水路”と呼んでさしつかえない。
◇      ◇
 9月のテーマは里山のキノコ。小松林の中でヌメリイグチ、ハツタケ、アミタケを採り味噌汁にした。
 年配の人たちにとっては、昔よく食べていた懐かしいキノコだったようで、「あれ、場所はどこだっただいなぁ」と、何人もの人に尋ねられた。

 昔は、畑のそばの林などに生えていて、秋になると採って食べていたのに、林がなくなって、キノコのこともすっかり忘れていたという人が多かった。
 そういえば、10月になって今年初めて山らしい山に登ったんだった。
 言い訳するわけじゃないけど、今、通行止めとか登山禁止とかで、山にはとても行きにくい環境にあるから、少しは大目に見てもらわないけんのかな。
 ともあれ、今年はスズメバチにも刺されなかったし、隊員全員ロケ中のケガはなかったので良かった、良かった。

2006年10月11日水曜日

われらはヒィーヒィー登山隊〈Peak.42〉



 この前、山に登ったのはいつだったかなぁ…と、この番組表をめくり返してみたら、なんと去年の6月(キリン峠行)から、山らしい山に登っていないことがわかった。
 もちろん、大山滝の上流や一枚岩渓谷、羽衣石山なんかの“なんちゃって”登山はこなしているけれど、本格登山の目安となる1000m超えはキリン峠以来なのだ。
 で、今回の目的地は矢筈ヶ山(1359m)。烏ヶ山(1448m)に次いで琴浦町No.2の高さを誇る名峰である。
 そうそう、名峰と言えばNHKのBSハイビジョンで募集した『日本の名峰』人気投票で、ふるさとの名峰・大山はなんと富士山、槍ヶ岳に次いで第3位に輝いた。
 すぐそこにあって、いつも見慣れている山が全国の名だたる3000m級の山々より評価が高かったのは、面映いけどすごく嬉しい。
 米子方面から見た山姿の美しさが、40分ほど車を走らせて鍵掛峠から見ると、アルプスを彷彿させる景色に変わる。たぶんそんな多様さと気軽さが人気の要素になっているのかもしれない。
 そうそう、大山ではなく矢筈ヶ山だった。
 矢筈ヶ山へは通常だと一向平から大山滝、大休峠を経由して行くのだけれど、吊橋手前の遊歩道が崩落して通行禁止になっているから通れない。
 船上山から勝田ヶ山、甲ヶ山を越えていく縦走路もあるけど、ちょっとエラすぎるので却下。結局、香取から入る一番楽なルートを選んだ。久しぶりの登山はリハビリも兼ねているのだ。
◇      ◇
 今回は特別ゲストを招いた。琴浦町法万の中村暢宏さん(67)。中村さんは、この夏に大阪・茨木からIターン。空き家を借りて一人住まいを始められた。
 以前から、東大山のブナの美しさに魅せられて、頻繁に琴浦通いを繰り返しておられたから、まさに「念願かなって」の琴浦住まいとなった。


▲大阪からIターン、中村暢宏さん

 大山が全国3位に輝いたこともそうだけど、“魅せられた”なんて聞くと、僕たちのふるさとにはいい山があるんだなぁと再認識させられる。もっと大切に、そして誇りにしなくては…と改めて思う。
 香取の登山口には、4駆車が2台と軽トラが8台。おそらくキノコ(主にマイタケ)採りの入山者に違いなかった。
 撮影の準備をしている間にも、50代の女性3人が「どうせ採れらへんけぇ」と大きな声で笑いながら、僕らの横を “おいこ”を背負ってすり抜けていった。
 今夏は雨が少なく、秋のキノコは不作と予想されていたが、案の定9月から生え始めるマイタケはあまり採れていないらしかった。
 僕たちは9月の番組で里山のキノコをたくさん採ったが、里山だけでは片手落ちなので、深山のキノコも探しながら歩くことにした。
◇      ◇
 登山口から、若いブナの二次林の中を15分ほど歩くと大山道に出た。
 大山道は、平安時代中期の山岳仏教の盛んなころ、大山寺と三徳山を結ぶ信仰の道として使われたもので、現在は、一向平〜川床(大山町)の9kmが中国自然歩道として残っている。
 昭和20年代までは、旧東伯町と大山寺を結ぶ生活道路のような感覚で、当たり前のように人や牛馬、犬猫(?)が歩いていたという。
 そして大休峠の近くには、江戸時代に敷かれたという石畳も当時のままに横たわっている。なんとも由緒正しい道なのだ。


▲江戸時代に造られた石畳

 その由緒正しい道を歩くと、山頂に近い部分を紅葉色に染めた甲ヶ山が見え隠れした。
 立ち枯れのブナや倒木には、あまり由緒正しくない毒キノコのツキヨタケがたくさんついていた。
 地ナメコも数本見つかった。自称キノコ博士の田村隊員が、正式の名は『チャナメツムタケ』と教えてくれた。その隣には『シロナメツムタケ』が2本。ともに、あまり見つからない美味しいキノコである。
 田村博士によれば、他に『キナメツムタケ』という種類もあるそうで、3種揃えばば早口言葉になるかなと思って探したけどなかった。
 そのほか、ブナハリタケとナラタケも見つかった。ナラタケには、キノコを常食にしている白いナメクジもついてきた。田村博士に刺激されたのか、谷口隊員はそのナメクジの名を『ダイセンオオシロナメクジ』だと言ったが、誰もが聞かないふりをした。


▲ダイセンオオシロナメクジ?

◇      ◇
 撮影、道草なんやかやで出発からおよそ3時間半、久しぶりに皆が由緒正しく「ヒィーヒィー」あえぎながら山頂に着いた。
 湯を沸かして、カップ麺とおにぎりで昼飯。暑い時期にはブンブン飛んでいる金バエが1匹も見当たらないのが嬉しかった。
 北には紅葉に染まり始めた小矢筈、西には甲ヶ山がくっきりと。南には全国第3位の大山が堂々と聳えている。
 下界に目をやると、倉坂の谷に小田股ダムが完成しており、その水面が目印になって琴浦町内の谷の位置関係が実によくわかった。
 大阪から琴浦へ来て3か月。「なんやかやで忙しく、たったの1度しか山へ登っていない」とぼやいていた中村さんも満足そうだ。隊員たちも雄大な景色を楽しんでいる。
 われらは登山隊。
 しつこいようだけど、われらは登山隊。
 やっぱり山に登らねば…。

2006年9月22日金曜日

秋・・・自然からの贈りもの〈Peak.41〉



 いやぁ、今年も秋だなぁ。
 ということで、9月の番組は『自然からの贈りもの』がテーマ。番組のメインアイテムとなるキノコをもとめて琴浦町某所に出かけた。別に場所を秘密にするわけじゃないけど、土地所有者をはじめ関係各方面に迷惑がかかるといけないから、やっぱり秘密なのだ。
 とりあえずのターゲットはイクチ。正式にはイグチ科のヌメリイグチ(たぶん)。イグチ科のキノコはかなりたくさん種類があるから、100%確信があるわけじゃないけど、ま、美味けりゃ名前は気にならない。このあたりではイグチではなくイクチと呼ぶことが多いようだ。
 ヌメリイグチはその名の通り傘の表面がぬるっとしているのが特徴で、裏側はイグチ科のキノコ特有のスポンジ状。色は茶系いろいろ。美味。小ぶりの松の木がある所にしか生えないという頑固な面を持っている。
 年配の方の中には「昔は秋になると、畑の横の松林に生えてきて、よ〜食ったいなぁ」と懐かしがる人も多いかな。
 僕も、子どもの頃、採って帰ると親に喜ばれるので、今頃の時期になると、イクチを探しにたびたび山に行ったのを覚えている。
 でも今では松林自体が、マツクイムシとか開発でほとんどなくなってしまっているから、イクチの顔も拝めなくなってしまっている。
 最近では、松の苗木が植えられるのは公園とか道路の法面など公共工事関係の場所に限られてしまっているようだ。
◇      ◇
 イクチはすぐに見つかった。それもそのはず、ロケ(9月22日)の数日前に、生えている場所を見つけて、個人的にイクチ採取のリハーサルをしておいたのだ。リハーサルのあと仕方なく食べたけどやっぱり美味かった。


▲ヌメリイグチ

 イクチに限らず、山でキノコを探すときは専用の“キノコ眼”にならなければなかなか見つけられない。
 この“キノコ眼”になるには条件があって、とにかく「見つけて食ってやるぞ〜」という固い決意が求められる。
 イクチの場合、わりとはっきりした色なので、見つけるのは比較的簡単だが、それでも落ち葉やカヤで隠れていることが多く、やっぱり“キノコ眼”が必要になる。はずなんだけど、現場について、ちらっとあたりを見回したらすぐに数本が目に入った。
 そこの場所は落ち葉・雑草関係が少なく、傘の色がそのまま見えるから、これまでキノコ採りではいつも“へなちょこ”だった谷口隊員でさえ何本も見つけて、採った。
 生息条件がイクチと同じアミタケ(イグチ科)とハツタケ(ベニタケ科)も見つかった。 アミタケはヌメリイグチとよく似ているが、小形のものが多く、熱を通すと赤紫色になって強いぬめりが出るのが特徴。とても美味。


▲アミタケ


▲ハツタケ

 ハツタケはこのあたりではアイタケと呼ばれており、毒々しい色に似つかわしくない、これまた美味しい味を備えている。
◇      ◇
 ロケが一番盛り上がったのは、場所移動で東高尾のくねくね山道を走っていたときだった。
 くねくねした途中の崖に、素晴らしく美しい赤茶色のキノコが生えていたのだ。
 ん?表現が陳腐すぎるぞ。そ〜だなぁ…鹿鳴館に通う派手目の貴婦人が、踊りの誘いを待っているような感じで佇んでいた、くらいかな…う〜む、わけがわからん。
 ま、その辺はどうでもいいけど、ロケに参加した隊員全員から一斉に「オーッ」という歓声があがった。
 彼女の名は『タマゴタケ』。図鑑を見ると、夏から秋にかけてシイやナラ、ブナなどの樹の下に生えて菌根をつくる、とある。


▲タマゴタケ

 テングタケ科で汁や鍋にすると、旨みのあるダシが出てかなり美味いらしいが食ったことはない。少し小ぶりの鶏卵の形をした幼菌が、大きくなると自ら鶏卵の殻を破り、キノコ形になっていくという。
 タマゴタケはよくキノコ図鑑の表紙を飾っていたりする。つまり、言うなればキノコ界のグラビアアイドル。イクチやハツタケはどう見てもバイプレイヤーだから、やはりアイドルは輝いて見えた。
◇      ◇
 番組では、キノコの他に、まだ青い山栗を採って、無理やり剥いて食べた。さすがに少し青臭かったが、なんとも懐かしい味がした。
 そう言えば僕が小学生の頃は、山栗を茹でておやつ代わりに食べていた。まだ鬼皮が青い栗の渋を親指の背でこそげ取り、ゴリゴリかじることもあった。
 生でもそこそこ甘かったが、茹でると一層甘くなった。お菓子を好き勝手に食べられる時代ではなかっただけに、子どもが自分で調達できるおやつはありがたかった。
 今は、道ばたに栗が落ちていたり、紫色に熟れたアケビが口を開けていても、子どもどころか大人さえ見向きもしない。ま、キノコは、誰もが採れる環境にあるわけではないし、食毒の判別のこともあるから無理かもしれんけど。
 でも、つまらんよなぁ。調理や始末が少しぐらい面倒でも、食べないけんわなぁ。自然からのせっかくのプレゼントなのに。
 『恵みの秋』−−−−こんな素敵な言葉を大切にせんけ、台風とか地震とか竜巻とか、自然からソッポを向かれるんだよなぁ…きっと。

2006年8月20日日曜日

登山隊 あんどろの川を行く〈Peak.40〉



 われらは登山隊。今月こそ山に登らねば…と先月もこの欄に書いたのだけれど、やっぱり暑さには勝てず、またまた川が舞台になってしまった。
 今年の夏の狂ったような暑さが悪いのか、はたまたわれらの根性が足らんのか。う〜む・・・。ま、とにかく暑いときは水の中に入るに限るのだ。
 田村隊員がオオサンショウウオ出没情報を仕入れてきていた。梅雨明け前に、チキンセンター西側付近のよどみで確認されたという。
 オオサンショウウオは言わずと知れた特別天然記念物。いつもは水のきれーいな、つめたーい場所に棲んでいる。
 大水に乗って、どんぶらこっと山川谷から流れてきたのかなぁ。それにしても、加勢蛇の中で一番汚い場所におらんでもいいのに。な〜んて思いながら現場付近を軽く捜してみたら、アユはいたけどやっぱり奴はいなかった。夜行性だから当たり前か・・・。
 その現場のすぐそばで、僕よりかなり年上のおじさんが投網を打っていた。
 マムシの死骸のそばに無造作に置かれていたバケツを覗き込んだら、アユ2匹とウグイが1匹。う〜む、ちょいとさびしいな。
◇      ◇
 毎年のことながら、加勢蛇川は夏になると水が減り、8月の半ばになっても下流に留まらざるを得ないアユがたくさんいる。
 普通なら水が少なくても、アユはそれなりにルートを見つけて上っていくのだけれど、えん堤だらけの加勢蛇川はそれを許してはくれないのだ。
 上流域から河口まで、100m置きに造られた大小様々のえん堤は、昭和30年代までに造られた堤防の枠組に沿って、中央部に流れをコントロールしている。
 えん堤は流れを階段状にする。階段状になれば、流れの速い“瀬”はできない。瀬ができなければ、流れの緩やかな“淵”はつくられない。


▲隙間に潜む魚を撮影する朝倉見習いカメラマンとそれを見守る隊長ら

 淵は魚たちのオアシス。深く切れ込んだ奥の方は暗く、外敵だらけの魚たちにとって、身を守る絶好の場所になる。
 一方の側には上流から流れてきた砂がたまり、水質浄化に一役買う。
 水がきれいになれば、その中に生きる動物も植物も元気いっぱいに増えていく。川は、健全な淵のあるなしで天と地ほど違ってくる。
 加勢蛇川のアユたちは、初夏にコケを食べながら遡上して、秋に再び下流域に下がってきて産卵するという “種に課せられた義務”を果たすことなく死んでいくのだ。
◇      ◇
 8月になって、加勢蛇川は下流から緑色に染まり始めた。
 緑色の正体はアオミドロ。川や池に棲むこの緑藻は世界中に生息しており、1千を超す種が存在すると言われている。水温が摂氏25度を超えると発生しやすくなるらしい。
 僕が子どもの頃は、この藻を『あんどろ』と呼んでいた。たぶんアオミドロがなまったのかな。
 前に、村のお年寄りに名の由来を尋ねた時は「そりゃぁ、あんどろだけだがな」で片付けられたっけ。確かに、見た目も手の感触もそんなに気持ちいいものではないから、あんどろという名はピッタリのような気もするけど…。


▲カメラに水中用のカバーを取り付け、あんどろの撮影に挑戦

 高知・四万十川の川海苔(青海苔)とよく似ているが、四万十川の川海苔は寒い冬場に採るものだから、根本的に異質なものなのだろう。
 番組では上流へ向かいながら、そのあんどろの川の中で魚介類を探した。
 杉下橋の下では、田村隊員が、動きが速くぬるぬるして手づかみの難しいカワヨシノボリをみごとに押さえてみせた。
 上法万橋の上手では谷口隊員が、どの魚より捕獲が難しいシマドジョウを砂と一緒に網ですくった。
 最後のロケ地・山川谷で僕はカジカをつかまえた。手づかみで獲ったのはたぶん40年ぶりくらいかな。


▲カジカ(ざっこ)

 当たり前だけど、カジカのぬるぬるした感触は昔のまま。つかみ取ったときの喜びも昔のままに蘇ってきた。
◇      ◇
 結局この日捕獲したのは㈰タカハヤ=泥バエ㈪ウグイの幼魚㈫カワヨシノボリ=ゴズ㈬シマドジョウ=サーランドジョウ㈭サワガニ㈮カワニナ=ニューニャー㈯カジカ=ザッコの7種。


▲サワガニ

 予定ではもう1種、ドンコ=ボッカが獲れるはずだったけど不発に。
 できればアユの顔も拝みたかったけど、初めに行ったオオサンショウウオ確認現場以外で、その姿(影も)を見ることはできなかった。
 アユは川の実力を測るものさし。力のある、いい川にはアユがたくさん遡上する。加勢蛇のような“えん堤川”にアユは棲めない。
 公共工事で造った構造物を壊して、自然に配慮した形に造り直す動きは、ここ数年全国各地で広がりを見せている。
 加勢蛇川でもさっさと始めんと、アユが1匹もおらん川になっちゃうなぁ。
 それにしても来月こそ山に登らんとなぁ。

2006年7月14日金曜日

登山隊またも川をのぼる〈Peak.39〉



 われらは登山隊。今月こそ山に登らねば…と思っていたのだけれど、「ただでさえ暑いのに、汗だくのおっさんの顔なんか見たくもない」という声がしきりに聞こえてくるもんだから、仕方なくというか、喜んでというか、今月は山じゃなく川をのぼることにした。
 ルートは琴浦町一向平の畜産団地下の川原から『鮎返りの滝』まで。恥ずかしながら2㎞ほどしかない。でも、僕を初め隊員たちは誰も歩いたことがなく、したがってテレビにも初登場の魅力たっぷりの場所なのだ。
 梅雨の晴れ間がのぞいた7月14日。一向平に車を置いて、スエイシー隊員の4駆の荷台に乗って川原へ。のんびり構えて午前10時前から歩き始めた。


▲お昼の冷麦をゆでるには大量のお湯が必要になる。ということで、大きな鍋を持参することにした。スエイシー隊員がそこらへんにある紐を利用して、ザックに固定した。

 このあたりは、少し上流で野井倉の水田と発電所用に水がごっそりとられるため、本流がまるごと姿を消してしまう。
 本流が再び姿を現すのは、集落の下で発電に使った水が戻ってきてから。2㎞くらいは“水無川”が続く。でも、その間も山水と湧き水でそれなりの流れができてしまうから、さすがに加勢蛇川。上流部ではまだまだ実力を持っている。
 山水でできたささやかな水溜りに、カジカ(蛙)のオタマジャクシがたくさんいた。体長は2㎝弱。まだ足は出ていない。
 すぐ親蛙も見つかった。カジカ(河鹿)の名はやっぱり体の色が鹿に似ているからかなぁ。6、7㎝の体の色と模様が微妙に鹿っぽかった。
 300mほど歩いて野井倉の取水点。本流がやっと姿を現し、待ちかねていた小前隊員が竿を振り始めた。
 
◇      ◇


 この谷にある松本薫さん(野井倉)のワサビ田で、サンショウウオの撮影をさせてもらった。残念ながら体長2cmほどの赤ちゃんしか見つけることができなかったが、サンショウウオの生息する自然がまだまだ残っていることを再確認できた。でもその場所が、人工のワサビ田なのは皮肉な現実なのだ。


 ワサビ田を出てすぐ、大きなえん堤にぶつかった。上下2段の本格派。合わせると10mほどの高さがありそうだ。
 左側の崖をよじ登ってえん堤を巻くことにし、ロープを持っていた谷口隊員が先頭で崖に取りついた。
 先に上ってロープを垂らすはずだったが、谷口隊員の登り様を見ていると、ロープを使うまでもなく簡単に登れそうだったので、さっさと自力で登っていくことにした。
 密集した草で、石のゴロゴロした足元が隠れ、何とも歩きにくいうえ、トゲのある草が攻撃してくる。こんな場所は早く脱出せねば——先を急ごうと顔を上げたら、谷口隊員の青ざめた顔が目に入った。
 「あれ、マムシじゃないですか〜?」
 指さした先の木の枝には、体に模様のあるヘビがとぐろを巻いていた。
 「あのすぐそばを僕の顔が通ったですよ〜」ふむふむ。他人の不幸は蜜の味。よく見ると、マムシではなくヤマカガシ(軽い毒ヘビ)。なんだ、たいしたことないがな。それにしてもえん堤を巻こうとしたら、ヘビがとぐろを巻いていたとは・・・う〜む、沢のぼりは奥が深い。
◇      ◇
 この日の昼飯は冷麦。ソーメンだとどうしても流したくなるから、流すための青竹を持って行く余裕もないので冷麦にした。
 冷麦だと流さんでもえーだかい!と突っ込まれそうだけど、その通り。冷麦は流さなくてもいいのだ。


▲お昼は冷麦。ゆでた麺は、流さんでもえーので、ざるで冷やして食べた。

 誰が決めただい!とまたまた突っ込まれそうだけど、きりがないので先に進もう。
 昼飯後、沢登りを再開。するとすぐ要塞のようなえん堤にぶつかった。両サイドは垂直の崖。どう頑張っても越えていけそうになかったので、いさぎよくあきらめて、来た道を引き返すことにした。
 小前隊員は1匹もよー釣らんし、なんだか盛り上がりに欠けたロケになってしまったなぁって思っていたら、なんとこの日のクライマックスは、やはり最後に控えていた。
 スエイシー隊員の4駆は、川原に頭を向けて停めてあった。車のすぐ後ろにスペースがあったから、普通のドライバーならバックして切り返そうとするに違いなかった。
 しかしなんと、スエイシー隊員は川原にゴイゴイ入り、ぐるっと回って車の向きを変えたのだ。
 荷台に乗った我々は、車から振り落とされまいと、唸り声を押し殺しながら必死に(荷台)ガードにしがみついた。
 よじれる内臓を押さえながら「アメリカはこうして、世界のあちらこちらで弱小国を蹴散らしているんだろうな」という思いが頭をよぎった。
 「それにしても、久しぶりにヒィーヒィー言った気がするなぁ…」

2006年6月8日木曜日

登山隊またも由良川を下る〈Peak.38〉



 そろそろカヌーに乗りたいなぁ…。
 なんかケツ(失礼!)がむずむずしてきたので6月は由良川を下ることにした。登山隊を名乗りながらも、今年はまだ一度も山らしい山に登っていないのが気になるが、由良川が呼んでいるのだから仕方ない。
 わが隊の由良川カヌー行は今回が2回目。2年前と同じく大島の少し上手の中橋に集合した。中橋より上流は段差がある上、この時期は田んぼに水をとられて航行不能となるから、ここを起点にするしかないのだ。
 東園浜の田中俊彦さんと北栄町の松本昭夫町長が特別隊員として加わった。二人とも取材の折に話をして、興味がありそうだったので声をかけさせてもらった。
 松本町長は午前のみの参加。一般隊員なら遅刻・早退はご法度だけど、まぁこれも仕方ないか。
 南風が強い。この番組のロケにとって風は雨よりも難敵で、マイクが風音をゴボゴボ拾ってしまう。音声担当がいて、ちゃんとマイクの防風対策をすればいいのだろうけど、零細登山隊ではなかなかそうもいかない。風がやめば雨が落ちてくるのは確実だった。
◇      ◇
 カヌーを借りるのには毎回苦労する。高知の四万十川のように、需要が多く商売として成り立つところには『貸しカヌー屋さん』が開店しているが、鳥取県内にはあるわけない。値段がとても高いから、零細登山隊が買い揃えられるわけもない。
 だから公共施設関係が持っているものを借りるしかないのだが、それらの施設の多くは、カヌーに乗る場所を限定したりしているから、なかなか貸してくれない。
 なんだか語尾に“ない”ばっかり続いたけど、自分とこのカヌーで事故でもされて責任問題になったらかなわん、というのが貸し出しを渋る理由のようだ。
 飛行機とかバスなら、事故が起こったとき、その所有者や管理責任者の責任が問われるのはわかるけど、カヌーはちょっと違うんじゃないかなぁ。
 カヌーは、沈(ちん=転覆)したら、運が悪けりゃ死ぬこともある。
 だからみんなが、自分の命は自分で守るという固い決意で、ふらふらする小船の狭いスペースにケツ(またまた失礼!)を入れる。
 沈して死ぬのは、すべて己の責任であるということを自覚しなければ、怖くてケツをはめられないのだ。
 学校のグランドで子どもが転んで、それを学校のグウンド管理が悪いからだと学校側の責任を追及するような親がいたりするから、公務員が防衛線を張る気持ちもわかる。
 でもその防衛線は、お客さん(県民)よりも自分達の保身を優先する考え方だから、明らかに間違っている。
 そうは言っても、ちゃんと僕たちがカヌーを借りられたってことは、中には心ある公務員もいるってことなのだ。
◇      ◇
 5月の下旬から6月初めにかけて、由良川流域は田植えが盛んで、本流も支流もぜ〜んぶ泥の川になる。
 由良川の色だと言ってしまえばそれまでだけど、まるでペンキを流したような濃さで、川が真っ茶色に染まる。
 この日(6月8日)は、そのペンキ色もだいぶ薄まって、コーヒー牛乳色くらいになっていた。
 某所から借りた一人艇4ハイと撮影用のカナディアンを中橋下の流れに浮かべ、順番に乗り込んだ。


▲出発地点は水が少なく、一人では漕ぎ出すことができない。松本町長の艇を押す前田隊長と見守る小前隊員。朝倉シェルパ隊長がカメラを回す。

 水が少なく、ゴリゴリと船底をこすりながらいざ出発!したのはいいけど、ん?なんだかこわいぞ。
 借りるときに「やけに小さくて軽いなぁ」と感じたもんなぁ…。実際に乗ると、ものすごく不安定で、ちょっと体重移動を間違えるとすぐ“沈”の危機が襲ってくる。
 僕はこれまで県内外で3回カヌーに乗ったことがあるけれど、3回とも安定性のある素人用(?)のもので、こわいと思ったことは一度もなかった。
 一人艇は同じタイプが4ハイ。僕の他に小前隊員、田中さん、松本町長が乗っている。見ると、みんな引きつったような表情で、真剣にカヌー操作と向き合っている。




 まるで緊張感のないのが、撮影用のカナディアンに乗った朝倉シェルパ隊長(撮影係)と漕ぎ手の谷口隊員だった。
 彼らは、僕らが怖がるのもおかまいなしに、安定性抜群の船を右に左に蛇行させながら、傍若無人に狭い川を下った。


▲午前の部終了。町長を囲み感想を話し合う。(お昼の上陸場所で)

◇      ◇
 瀬戸までは、コンクリートの護岸がしてないところが多く、葦がきれいに岸を覆って、目を細めて下ると実に美しく感じた。
 でも、目をこらせば川岸の葦の中にはペットボトルやトレイなどの家庭ごみ。川の中には空き缶、そしてタイヤまで。橋の上からぶちまけたのだろう、海魚のはずのアジも二十匹ほど川底に横たわっていた。
 田中さんが、前川との合流点で上陸しようとして“沈”した。
 そのとき田中さんは、撮影艇のはるか前方を行っていたから、残念ながらカメラに収めることはできなかった。映らなければせっかくの沈も意味がない。
 事前に“ムダ沈”はしないように言っておいたのになぁ…ま、特別隊員だから許そう。
 中央公民館前から河口までは、朝倉シェルパ隊長がカメラを捨てて一人艇に乗った。
 朝倉シェルパ隊長は2年前の由良川下りで、二度沈した実績を持つ。それだけに皆の注目と期待を一身に集めたが、 くやしいことにこちらも何事もなかった。くそっ!
 でもまぁ、死人が出なくてよかったとしとこかな。
 “沈”がなかったのを残念がってか、それとも川下りが終わるのを待っていてくれたのか…本格的な雨が川面をたたき始めた。

2006年4月12日水曜日

洗川も捨てたもんじゃない〈Peak.37〉



 旧東伯町を流れる2大河川といえば…な〜んてそんなたいそうな川でもないけど加勢蛇川とこの川。
 赤松川と野田川が福永で合流して上郷谷を下る。三保で倉坂川を招き入れ、八橋の東で日本海に注ぐ。そう洗川である。
 僕が子どもの頃、毎日のように遊んだ加勢蛇川はとても近い存在で、たびたびこの番組の舞台になっている。でも、片方の雄・洗川はなんか縁遠い“よそ”の川。だからこれまで一度も登場したことがなかった。というわけで今回は洗川なのだ。


▲ニリンソウ


▲ヒメオドリコソウ


▲オオイヌノフグリ

 その洗川で子どもの頃よく遊んだという朝倉シェルパ隊長(山田在住)の案内で、まず東公文の上手で川を覗いた。三保より下流なら川幅が広くなっていて、河川敷に下りることもできるが、上流はなかなか下りる場所がない。仕方ないので田んぼの畦から川を覗き込む格好になってしまう。
 僕のイメージでは、洗川=泥の多い川。でもその先入観は東公文のひとのぞきで吹っ飛んだ。なんとも川姿がグッドなのだ。
 流れの具合いや石の配置は、渓流のそれに似ている。でも川岸・川底のゴミの多さはお世辞にも渓流とは呼べない。畦からは、流れの中央付近を泳ぐ泥バエ(タカハヤ)が数匹見えた。
◇      ◇
 今回の番組は、里山ならぬ“里の畦と川”がテーマ。あっちこちの畦に、つつましくも可憐に咲く小さな花や、毎年決まった場所に顔を出すフキやヨモギなどの野草を紹介して、ついでに魚なんかも釣っちゃうのだ。
 釣り番組に欠かせないのは小前隊員である。あれは忘れもしない去年の夏。彼は上鳥池に浮かんだゴムボートの上で、時間切れ寸前に大物を釣り上げ、『ブラックバスを食う』という画期的?な番組企画を土壇場で成功させた実績を持っている。
 天気が悪く、ロケが延び延びになってしまい、結局決行できたのは放送日の前々日。決行前日になって日程が決まったから、小前隊員に連絡を入れたのも同じく前日になってしまった。
 でもさすがに土壇場に強い小前隊員。すぐさま『OK!』のメールが返ってきた。3度のメシより釣りが好きなのは理解できるけど、サラリーマン隊員なのに、こんなことで仕事はええのかな〜と少しだけ心配になった。
 福永の下手で畦に咲く花々を撮影している間に、小前隊員が釣りポイントを探してきた。
 本流が大きく蛇行し、小さな淵をつくっている場所に、山水らしきものが上から落ちている。淵の上に枝が張り出しているから、あたりが暗く水の中の様子をうかがい知ることはできないけど、魚のいる気配がビンビン伝わってきた。
◇      ◇
 小前隊員は自前ののべ竿。僕と谷口隊員は某ホームセンターで買った、エサ以外全部揃っている“小魚釣り用”ののべ竿を振った。
 エサはミミズと匂いつきワーム(小前隊員持参)、そして魚肉ソーセージ。
魚肉ソーセージは、ひと月ほど前にうちの田んぼ脇の川で、泥バエを釣って試してみたら、なんと入れ食いだったのだ。ちなみに僕の好きなのは日水ブランド。きっと泥バエもそうに違いない。
 小前隊員が一投目で、思いがけない魚を釣り上げた。


▲小前隊員恐るべし。1投目で赤バエを釣り上げてしまった。

 なんと、赤バエ(カワムツ)だ。
 赤バエは、僕が小学生の頃は加勢蛇川にもたくさんいた。流れの速い場所にはいないが、水が停滞気味で湧き水が混ざっているようなところに多くいたように思う。
 春から夏にかけてオスは腹が濃いオレンジ色(婚姻色)になり、頭というか顔のあたりに固いブツブツが出て、触ると痛かった。
 その赤バエは、川原の砂利採取による濁り水で、ザッコ(カジカ)と共にあっという間に加勢蛇川から姿を消してしまった。
 僕はすぐに、魚信のなかった魚肉ソーセージをミミズに替えた。たぶん赤バエは日水ブランドが嫌いなのだ。
 するとすぐに魚信があって僕にも赤バエが上がってきた。苦節?35年くらいか。ほんとに久しぶりの対面だった。
◇      ◇
 1年ぶりに見るアユは、恋人と久しぶりに会ったような気持ちにさせられる。35年ぶりに見た赤バエは、小学校のとき転校していった仲良しのテッちゃん(仮名)に出遭ったときのような懐かしさがあった。


▲釣り上げた赤バエを見てニンマリする隊長とカメラマン見習いの朝倉隊員

 洗川の上流部は川幅が狭くて、砂利採取や工事でいじられなかったから、ずっと赤バエが生き続けてきたんだなぁ…。
 僕が感慨にふけっていると、隣では谷口隊員が頭上の枝に針をひっかけていた。
 僕は、もう一匹赤バエが見たくて、静かにまた竿を出した。

2006年3月20日月曜日

要害山のいま・むかし〈Peak.36〉



♪要害山を切りひ〜ら〜き〜

  文化と平和 うち立〜て〜る〜♪


            (東伯小学校校歌の一部)


 何を隠そう僕は東伯小学校の出身。昭和37年の4月に入学してから6年間、ことあるたびにこの校歌を歌っていた。 
 当時は歌詞の意味など深く考えてみもしなかったが、 “要害山”はなんとなく気になっていた。ていうか、その頃は要害山=溶岩の山と思っていたことを、この原稿を書きながら思い出した。
 琴浦・北栄には国土地理院が正式に認めた名前のついた山は数えるほどしかない。実際に数えてみると、琴浦町には㈰烏ヶ山(1448m)㈪矢筈ヶ山(1359m)㈫甲ヶ山(1338m)㈬勝田ヶ山(1149m)㈭飯盛山(953m)&船上山(687m)の6峰。残念ながら要害山は認知されていない。
 北栄町にはないわなぁ〜と思ったけど、念のため国土地理院の2万5千分の1地図を確認したら、ん?あるがな。
 蜘ヶ家山(くもがいやま)。曲(まがり)にあるこの山は、たった177mしかないのに地図に名前が載っている。
 そーか、北栄町にもあったんだ。と思ってページを閉じかけたら、ん?もうひとつあるがな。茶臼山(国坂)。え?94m?きゅうじゅうよんめ〜とる〜!?
◇      ◇
 国土地理院に電話して、名前掲載の基準を聞いてみた。
 「地図に掲載している山の名前は、すべて当該自治体に照会して決めたものです」
 国土地理院の担当者の口調は淡々としていた。平たく言ってしまえば、その山が役場の担当課に認知されているか、そうでないかが地図に名前が載るか載らないかの分かれ目だという。つまり、“裏山”とか“前の山”とかではなしに、ちゃんと地域で多くの人々から“○○山”と呼ばれていることが大切なのだ。
 なら、なんで要害山は地図に名前が載ってないんだろうなぁ。少なくとも東伯小学校の出身者はたぶん全員が知っているし、同じ琴浦町の飯盛山とかよりはよっぽど地域に認知されているのに…。まあいい。愚痴を言っても始まらん。


▲尼子氏が出城を構えた妙見山(琴浦町大杉)

 で、小学生の時は“溶岩の山”だと思っていたその要害山が3月の番組のターゲットになった。
 高さは114m。地図に名前は記されていなくとも、標高はちゃんと掲載されている。平成7年までは東伯小学校が建っており、校舎が移転してから跡地は荒れ放題になっている。
 しかし、いくら“山”が付いているとはいえ、100mそこそこの“ガキ山”に登ってお茶は濁せない。われわれは登山隊なのだ。
 と言いながらも最近は山に登らないことが多いが、今回は『要害』にこだわることにした。
◇      ◇
 要害??広辞苑を引けば㈰地勢が険しく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地㈪砦・城塞、とある。
 では、何を何から守っていたのだろう。郷土史に詳しい人に電話して聞いたり、ネットで調べてみると、なかなか興味深いふるさとの歴史が明らかになった。
 簡単に言えば、戦国時代のある時期、この地が尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となり、羽衣石城(湯梨浜町)を拠点とする尼子氏が妙見山(琴浦町大杉)に出城を構えた。そのとき八橋城を支配していたのは毛利氏で、尼子氏が毛利氏の攻撃に備えるために、この山を要害として位置づけたのだ。
 中学・高校と歴史を教えられても、まったく身につかなかった。というか興味がわかなかった。僕だけじゃなく多くの同級生が「受験に必要だから」という理由だけで、日本史や世界史に接していたように思う。
 ところがまぁなんと。目からウロコ。ヒョウタンからコマ。犬も歩けば棒に当たる。ちょっとだけ興味を持って勉強すれば、すぐに面白くなり、本格的に郷土史を勉強しちゃおうかなぁ、なんて気にさせられる。
 僕が教わった先生も、身近なふるさとの歴史から、も少しわかりやすく教えてくれれば、も少し歴史に興味がわいて、僕もも少し違う人生が開けたかもなぁ。


▲要害山。尼子氏が毛利氏の攻撃に備えこの山を要害と位置づけた(琴浦町公文)


▲立派な石垣が残る八橋城跡(琴浦町八橋)

◇      ◇
 ロケの日、♪要害山を切りひ〜ら〜き〜♪の歌詞を撮影しようと東伯小学校を訪ねた。
 応対してくれた先生に、僕は軽く口ずさみながら、「要害の丘 空晴れて〜♪」っていう運動会の歌もありますよね!?って自信満々に聞いたら、今はそんな歌ないですね〜ってあっさり言われた。まぁ40年近くも前のことだから仕方ないけど、なんだかなぁ・・・。
 ところで要害山には今、猿が出没するとか、しないとか。通学中の子どもの目撃情報らしいが、昔はあちらこちらで人の前に現れていたという。
 上郷の奥部ではここ数年来、山を切り崩す道路工事が行われている。
 もしかしたら猿たちはそのせいで奥山を追われ、要害山に逃げ込んできたのだろうか。
 敵を防ぎ味方を守るのに便利な地を『要害』と呼ぶなら、猿たちが今この要害山で守っているのは、自分たちの命そのものなのかもしれない。

2006年2月20日月曜日

登山隊“コトの浦”を歩く〈Peak.35〉



 2月は恒例のビーチコーミング。季節風が運んでくる“海からの贈り物”を丹念に見て歩く。櫛(comb=コーム)でとかすように海辺を探索するからビーチ・コーミング。今年で3年目になる。
 出発地点は毎度のことながら琴の浦・箆津海岸。黒川右岸の河口から東に向かって歩くことにした。去年はここに生ゴミがぶちまけられていたが、今年は見当たらない。なんともレベルの低い環境改善だけど、逆よりはいい。
 それにしても海岸が汚い。黒川と勝田川に挟まれているから、葦クズなどの植物ゴミが多いのはわかるけど、廃棄漁具や石油製品ゴミが多すぎる。
 勝田川を渡ってすこし行くと、おじさんが金属のヘラのようなものを使って海草を岩からこそげ採っていた。モンバだかヒラだか海藻類は図鑑を調べてもわかりにくくて正式な名称は不明だが、この時期の海草は磯の香が立ち実に美味い。
 波打ち際へ近づいて行って5分ほど話をして、おじさんが手に持っていた洗面器1杯分ほどの海草をもらった。たぶん30分以上かかって採ったものに違いない。
 おじさんにとっては災難だったに違いない。怪しげな男が4人突然やってきて「この海草は、汁にしたり醤油に漬けて食べたらとっても美味い」なんて言われれば、差し出さないわけにはいかんもんなぁ。
 断っておくが、洗面器が一杯になるのを待って近づいていったのでは決してない。ん?たぶん、かな。


▲おじさんにとっては災難だった。「海藻をもらうまでこの場を離れんぞ」そんな雰囲気の前田隊長と田村隊員だ。

◇      ◇
 それにしてもここらの海岸には年ごとに人工物が増えている。昔は確かに『琴の浦』だったのかもしれないけど、今は景色のどこを切り取ってもコンクリート製の『コトの浦』。 


 侵食されるのを防ぐためのテトラがあるかと思えば、逆に砂がたまるのを防ぐためのテトラもある。その場しのぎとしか思えないおびただしい数のテトラが、何のためらいもなく置かれているのだ。
 町外の人に「どこが琴の浦?」って聞かれたとき、町内に住む僕たちは何て答えたらいいのだろう。誰か教えてほしい。
 海岸線に住む人たちの命を守る、という目的もあるのはわかるが、それを大義名分にして何でもしていいわけではない。もう少し大きな視点で海岸行政を考えていく必要がある。
 何だか固い話になってしまったけど、というわけで今年も、先月あたりからワイワイ言っているように『環日本海流木アート大賞展』をTCBホールで開くのだ。

2006年1月14日土曜日

冬はやっぱり『かまくら』なのだ〈Peak.34〉





 1月14日、第2土曜日、関係ないけど友引。午後から雷と一緒に大雨が降り、加勢蛇川がこの時期には珍しくまっ茶色に染まった。田んぼの畦下に残っていた去年の雪もきれいにとけた。
 翌15日は恒例の(と言っても2回目)かまくら作りの日。今冬は寒気と雪が12月からパワー全開で暴れまくったので、古布庄とか以西とか奥部の小学校の校庭でもつくれるかな〜と期待していたが、やっぱり今年も人里離れた一向平になってしまった。大きなかまくらをつくるには、少なくとも1mほどの積雪が必要だから、どうしても場所が限られてしまう。
 で、15日の朝9時前、一向平の玄関・畜産団地入口に集合した。ヒィーヒィー隊が5人。ありがたいことに助っ人部隊の『らくらく山歩会』の方が多くて6人。都合11人。



 集合場所付近の積雪は、前日の大雨でとけて50cmほどになってしまっていた。
 かまくら建設現場は昨年と同じ一向平駐車場である。畜産団地から1kmほど奥に上がるだけだが、例年この時期には2m近い積雪がある。だから、現場に行けば1mぐらい軽いわいっ!と楽観して、船上山少年自然の家から借りたスノーシュー(西洋かんじき)を『うんとこせっ!』と履いた。
◇      ◇
 なにをかくそう、この2,3日前から僕は風邪をひいていた。建設前夜の体温は38.5度。かなりやばい、と思いながら解熱剤を限度いっぱい飲んで寝た。
 そして翌朝。体温はまんまと37.2度にまで下がっていた。とはいえ、厳寒の中での建設作業が待っている。普通なら当然キャンセルのケースだろうなぁ、と思いながらも集合場所に急いだ。隊長はつらいのだ。
 スノーダンプ、スコップ、バケツ、昼飯材料その他。いつものことながら荷物が多い。加えて今年は一向平の山水が止まっているから、水まで運び上げなければならない。
 山歩会のメンバーに誘われて、琴浦町の英語指導助手のキャサリンが参加してくれていた。彼女は、米国南部のアラバマ州出身。雪にはシカゴの大学時代に初めて出あったという。でもシカゴに降る雪は汚くて、すぐに嫌いになったそうだ。
 和かんじきほどではないが、スノーシューも左右の足を離して歩かねば、右足で左足を左足で右足を踏んでしまい、ややこしくなって転んでしまう。
 キャサリンが何回もこけた。やっぱ外人で足が長いから、ガニ股モードは不得意なのかもしれない。こけるたびに笑い声があがった。
 僕はいつもなら先頭を歩いているはずなのに今回はしんがり。建設現場に着く前からすでにガタがきている体にむちうちながら、隠居した老人のような眼差しで、遠くでキャサリンがこけるのを見ていた。
◇      ◇
 建設現場の積雪は予想通り1mを超えていた。午前中に高さ3m・直径4mの本体を立ち上げ、午後から内部の掘削工事にかかる段取りである。
 そういえば小前隊員のヒィーヒィー隊デビューは去年のかまくら建設だった。
 初参加で、しかも『自称・かまくら職人』のくせに大きな顔をしてあれこれ指図していたが、今年は晴れて“自称”がとれ、押しも押されもせぬ『正統派・かまくら職人』として、さらに大きな顔ができるようになった。
 直径4m、高さ3mといえば相当な大きさである。建坪は、え〜っとパイアールの2乗だから・・・
12.56平方メートル≒3.8坪≒7畳もある。内部はたぶん5畳くらいになるのかな。
 「そこが出っ張っている」とか「もっと雪を上げろ」とか、かまくらの上に職人が陣取って、下にいる人夫たちにあれこれ指図している光景を遠くに見ながら、つらい肉体労働を避けた僕は、一人弱々しく昼飯の豚汁づくりに精を出した。
 キャサリンは雪だるま製作に精を出していた。米国式の雪だるま(American Snowman)は、なんと3段式。上が頭、中は胴体、下は足だという。もちろん下が一番大きい。


▲上が頭、中は胴体、下は足。アメリカ式雪だるまは三段だ。

 やっぱり足が長いからなぁ、と簡単に納得してしまったが、他の難しい理由があるのかなぁ…。
 キャサリンは、かまくら建設現場のすぐ横で、水気たっぷりの重くてくっつきにくい雪のかたまりを根気よくゴロゴロ転がした。
◇      ◇
 建設は順調に進んで、午後4時前には、去年よりちょっとだけ大きいかまくらが完成した。その周りにはバケツに雪を詰めてつくったミニかまくらが70個ほど。3段式の雪だるまも、バケツの帽子とキャサリンのマフラーを身にまとってすましている。
 みんながかまくらの中に入り、七輪を囲んでワイワイ言いながら、山歩会の宮川さんと岩本さんが差し入れてくださったかき餅とお汁粉をいただいた。
 “いただいた”なんて上品な食い方をした隊員ないし会員は一人もいなかったような気もしないではない。でも、差し入れはいつの世もありがたく“いただく”ものなのだ。
 僕の隣でキャサリンが「少し雪が好きになった」と話した。そーだろ〜、そーだろ〜。日本の雪はきれいなのだ。
 それにしてもさぶい。他の隊員ないし会員は、「やっぱりかまくらの中はぬくいなぁ」なんてほざいているのに、さぶすぎる。
 理由は簡単だった。かき餅焼き係を買って出た谷口隊員が僕の前にしゃがみこみ、七輪の熱を遮断していたのだ。
 そう気づいた時はすでに「どけ!」と怒る気力も「どいてね!」と頼む寛容さもなくなっていた。
 そして僕の体は、ぬくいはずのかまくらの中で、体温急上昇モードに突入していった。


▲夕暮れを待って、ミニかまくらに灯をともす。このシーンを撮影しなければ番組は終わらない。撤収する頃はどっぷり日が暮れていた。