2003年11月13日木曜日

東大山のブナを考える〈Peak.8〉



 大休峠の"大休"は「たいきゅう」ではなく「おおやすみ」と読む。
 一向平から、川床から、船上山から、そして大山寺から。4つのルートが大休峠の避難小屋で交わる。初夏の日曜日の昼時ともなれば、「ここでビールを売れば儲かるだろうな」と思うくらいたくさんの人で賑わう。
 とりわけ景色が素晴らしいわけでもない。むしろ見るべきものは何もない。しかし多くの人で賑わうのだ。くやしいが賑わうのだ。意地になっているのかもしれないけど賑わうのだ。
 初めて行ったのは5年ほど前。ブナの新緑を撮影しようと、谷口隊員と二人で、カメラと三脚を担いで出かけた。


▲カメラに加え三脚を担いで、急な斜面を下る田村隊員

 TCBの仕事は体力が命。よく、「企画して編集して原稿も書いて、頭を使う仕事で大変ですねぇ」などと言われることがあるが、大変なのは頭ではない。体なのだ。だいいち、「大変ですね」なんてねぎらわれるような上等な頭を持った社員は、自慢じゃないが一人もいない。取材で毎日、9キロのカメラと8キロの三脚を持って動き回るためには、頭の中味も筋肉であることが必要なのだ。
 ん?なんの話だった?そうそう、新緑を撮影しに出かけた話。体力にはそこそこ自信があったが、大休口から峠へ続くつづら折れの急坂はけっこうきつかった。 
◇     ◇
 当時も今も、5月の東大山は清々しい息吹であふれる。ブナ、ミズナラ、カエデ類−−木毎に異なる緑色は、初夏の日差しを吸い込んだり、はね返したり−−一向平を出発して2時間もたたない うちに、僕たち二人はすっかり東大山のとりこになってしまっていた。
 ヒィーヒィーどころか、ゼーゼー言いながら急坂を登りきると横手道。視界が開け、前方には大山の東壁、左手には烏ヶ山が威容をあらわす。
 驚いたのは、横手道の周辺一帯に生えているブナが、まるで白樺みたいに見えたことである。新緑の季節だというのに、樹についている葉が少なく、全体が白っぽく見えたのだ。
 言い換えれば、まるでブナの墓場みたいな印象だった。


▲大休峠周辺はブナの林が広がり、四季を通して美しい風景が楽しめる

 番組の中では、ブナが半枯れのような状態になっている理由を、過去の台風被害と寿命の2点に結論づけたが、酸性雨など地球規模の環境問題との因果関係も、これから調べていかなければならないだろう。
◇     ◇
 旅行社風に表現すれば、わが登山隊の最少催行人員は3人である。つまり、最低3人はいなければ、山にも川にもどこにも行かんよ、ということである。でも、3人しかいなければ、1人当たりの荷物は重くなるし、炭火焼セットも運べない。5人全員揃うのがベストだが、なんとか4人は確保したいところである。
 それなのになんと今回は、隊長の僕と谷口隊員、そして田村カメラマンの3人だけ。旅行社的に言えば、とてもみっともない、最少催行人員でのツアー決行となった。頭の中味には何にも期待していないけど、体を使わなくてはならないはずの浜本隊員と朝倉シェルパ隊長が、仕事の都合で来ることができなかったのだ。
 決行の日までずーっと雨が続き、なかなか山に入ることができないでいた。天気予報は傘マークだらけ。放送日も繰り延べざるを得なかった。しかし、待ってばかりはいられない。見切り発車みたいな形で11月13日の午後、小雨の中を大休峠の避難小屋に入った。
◇     ◇
 晩飯は"キノコたっぷりスキヤキ風鍋"を計画していた。キノコはもちろん現地調達である。
 暗くならないうちに、小屋の周辺で物色を始めた。採れなきゃただのスキヤキになるだけなのだが、雨が続いていたせいか、いともたやすく3人の晩飯に十分な量のナメコとボタヒラ(ムキタケ)を確保することができた。
 小屋の中は、もちろん雨はしのげるが、電気があるわけじゃないし、炭が置いてあるはずもない。重かったから、明るいランタンも持ってこなかった。
 小屋の外は3度。中はそれでも7、8度はあるだろうか。暖房関係は携帯用のガスコンロの火と鍋から立ちのぼる湯気だけが頼りだ。    
 山用にと、倉吉のユニクロで仕入れた1本1,000円のフリースのズボンと、これまたフリース製で、2足で1,000円の靴下を履いた。
 当然ながら、アルコール飲料を摂取して内側から温もる作戦も実践したが、温もる前にあえなく在庫切れ。
 となると、寝るしかない。8時すぎにはすごすごと寝袋に退散したのであった。その寝袋内での寒さに震えた一夜は、思い出すと涙が出そうなのでここには書かないでおく。

■ブナ・メモ
 ブナ科ブナ属。温帯に自生する広葉樹の代表。漢字では「木へんに無」と書く。その保水性から緑のダムとして注目されているが、水分が多く建材などへの利用がしにくかったため、以前はあまり重要視されていなかった。ブナ林は何100年かかって森の最終的な形として形成される。極相林と呼び、以降は安定して何世代にもわたり同じ林が続くことになる。

2003年10月20日月曜日

ふるさとの川で〈Peak.7〉



 「今度は加勢蛇川を下る」なんて言わなきゃよかったなぁ・・・なんて思いながら、法万橋の上から川原を眺めた。
 一面にはびこるクズと葦、そしてトゲのあるカナムグリ。柳などの小木もたくさん生えている。主役であるはずの流れは、細い筋となって葦の間に見え隠れするだけ。木曾が"山の中"なら、さしずめ加勢蛇川は"草の中"である。


▲川原などの荒地に育つカナムグラ

 草の中にはタヌキがいる。イタチがいる。ヌートリアがいる。そして、もちろんマムシもいる。痛〜いトゲもある。旺盛な好奇心(怖いもの知らずともいう)と長靴がなければ今の加勢蛇川は歩けない。
 井滝の大山滝橋の下にテントを張った。今の加勢蛇川で、車で川原に下りることができて、なおかつ、流れのそばにテントを張れる場所は限られている。というよりも大山滝橋下しかない。流れまで道の草がきれいに刈られており、牛が川で水を飲んでいた40年前の加勢蛇を彷彿させる場所でもある。
 ◇       ◇
 清流先進地、高知・四万十川の川原は丸い石であふれていた。身を削って砂を作り出してきた丸い石は、清流の象徴でもある。
 加勢蛇の川原には大きな石がない。大水でごろごろ流れて、大事な大事なえん堤が壊れると困るから、工事の時に撤去してしまってあるのだ。ごろごろ転がらないから、小さな石ができないし、砂もできない。水も浄化されない。ないない尽くしの悪循環である。
 循環と言えば、今回の番組では芋車が活躍した。本来は家の前の川で使うものだが、加勢蛇の本流で回した。芋車の中身はもちろんサトイモ。晩メシを兼ねた芋煮会の主役である。流れが速ければ30分ほどで擦り上がるようだが、本流では回転が遅く2時間もかかった。


▲夕食は川原で芋煮。イモ車でサトイモの皮をむいた。川にイモ車が回る風景はいいもんだ。

 芋煮会はこの辺ではあまり馴染みがない。でも東北地方ではメジャーな秋の行事である。新サトイモが獲れるころになると、川原で火をおこす煙が幾筋もあがる。
 川原が会場になるのは、日頃から川に親しんでいるから。芋煮会には、豊作への感謝と同時に、川を大切にしながら川を楽しもう、というメッセージが込められている。
◇       ◇
 秋の陽はつるべ落とし。ましてや下三本杉、山が近い。撮影を一通り終えて、芋煮の準備に取りかかった頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。味つけはインターネットで仕入れた本場・山形風に。簡単に言うと、サトイモの入ったちょっと薄味のスキヤキ、といったところか。
 昼間は晴れていたのであまり感じなかったが、闇があたりを支配するようになると、橋の下特有の"悲哀"がテントの周りを包んだ。
 寝ている間に川が増水して、そのまま死んだら、労災になるのかなぁ。それより、俺は天国に行けるのかなぁ??な〜んてことがぼんやり頭に浮かんでは消えていく。橋の下は人の心にぽっかり穴を開けるのだ。
 芋煮が大方出来上がるころになって、浜本隊員がガソリンランタンを持ってやってきた。浜本隊員は今回も、「仕事が忙しくて…」などと見え透いた言い訳をして、昼間の撮影には加わっていなかった。だが隊長の温情で、芋煮を食べるシーンだけ出演することになっていた。同時に、明るいうちにランタンを持ってきておくことを申し渡してあった。
 田村隊員が調理を担当するため、芋煮会のシーンは朝倉シェルパ隊長がカメラを回す。
 「まだ、食べれないんですかねぇ」
 ランタンをセットしながら、浜本隊員が誰にともなく聞いた。
 とたんに、あたりに緊張が走った。プチッ!と何かが切れる音も聞こえた。もう、悲哀などと言っている場合ではない。
 「お前が、もっと早くランタンを持って来んから、暗くて調理が進まんけ、こんなに遅くなったんじゃ。ボケ!」と言う隊員は一人もいなかったが、田村隊員が密かに闘志を燃やしていた。そのただならぬ気配を察したのだろう。普段はヌボーッとしているシェルパ隊長も早々とカメラのスイッチを押していた。
 「浜ちゃん。はい、できたよ」
 つとめて冷静を装いながら、田村隊員がお椀いっぱいに芋煮をよそって、浜本隊員に手渡した。
 「あっつー!」
 器を持つのさえ熱いのに、すぐ口に入れられるわけがない。
 「浜ちゃん、ほらすぐ食べんと。カメラ回っとるだーで。何年テレビの仕事をしとるだいや。肉は食べんでえーよ。芋食べんと、芋を・・・」
 「熱!あ〜っ・・・」
 橋の上は満天の星空。歓び(ではないだろうなぁ)とも悲鳴ともとれる叫び声は、場の空気を読むことの大切さを、隊員たちの心にしっかりと植え付けたのであった。
◇       ◇
 朝が近くなるにつれて、矢筈ヶ山の方から吹いてくる風が力を増した。寝室と玄関だけのロッジ型テントは、か細い柱をきしませて、健気に立っていた。いつも通り、寝室には隊長と隊員。玄関の広い土間ではシェルパ隊長が寝袋にくるまっている。
 朝5時。事件は起こった。
 寝室の中の風音が急に迫力を増したので、急いで外へでてみると、なんとびっくり。寝室の内壁だけを残して、屋根がそっくり10mほど先に飛ばされているではないか。
 この非常事態に田村隊員と谷口隊員も起き出してきた。二人とも呆然として被災した自宅を見つめている。
 「これは、ヒィーヒィー隊の将来を暗示しているのかなぁ」
 口をついて出る言葉がつい気弱いものになってしまう。
 風がどんどん冷たくなっていく。
 体もどんどん冷えていく。
 「俺は、天国に行けるのかなぁ・・・」
 橋の下にまた"悲哀"が漂ってきた。
 「うーん・・・」
 「ん?」
 玄関だった場所で、中身入りの寝袋がゴロリと動いた。

■加勢蛇川メモ
 大山の東壁に源を発する加勢蛇川は、北東に流路を求めて日本海に注ぐ。上流には名瀑大山滝、さらに上流部が地獄谷。加勢蛇川は河口までおよそ24km。その間、数えきれないほどのえん堤がある。ほぼ100mおき。加勢蛇の由来は、須佐之男命(スサノオノミコト)に退治されたヤマタノオロチの妻蛇が、友達の加勢を伴って、上伊勢の川に敵討ちにやってきたことから、天照大神(アマテラスオオミカミ)が命名したと伝えられる。天照大神は須佐之男命の兄。

2003年9月21日日曜日

四万十川遠征記(後編)〈Peak.6〉


▲記念撮影にもってこいのつり橋を見つけた。右手にある家の所有者がかけたものらしい(黒尊川で)

 四万十川を一枚の写真で表すとするなら、ファインダーの中にぜひとも収めたいのが沈下橋である。この橋は、文字通り大水のときには水面下に沈む。欄干がないから、沈んでも水圧の影響が少なく、橋が流されない。
 生きていくためには、川も橋も必要だから、川に敬意を払いつつ、橋も活かしていく。川とともに生きてきた流域の人たちの自然観がひと目でわかる橋である。


▲我々が川原にキャンプした勝間の沈下橋。長さおよそ170メートル。幅は4メートル

 2泊3日の四万十川遠征。投宿先は勝間沈下橋のそばの川原に決めた。
 河口から数えて四つ目の沈下橋である。中村市の中心部から車で30分ほどの距離。長さは171m、幅4mと並の大きさで昭和40年に造られた。
 川原を選んだのは、我々の怪しい風体に合わせたから、ではない。四万十を理解するのに一番適している、と思ったからである。それともう一つ断っておくが、ねぐらにしたのは橋の"下"ではない。"そば"である。我々はれっきとした旅行者なのだ。
 ◇      ◇
 四万十に来ても、テントは相変わらず一つだけ。例によって旧式の6人用ロッジ型である。
 流れで丸く削られた大小様々の石を平らにならして、ロッジの敷地を確保した。
 しかし広い。川原がムチャクチャ広い。一面石、また石。加勢蛇川の川原はクズと葦で埋め尽くされているが、正しい川原の姿はこうでなくっちゃいけない。

 四万十の川原には車も自由に乗り入れることができる。どこにでも自由にテントが張れ、遊びの範囲を逸脱さえしなければ川漁も可。カヌーだろうが水泳だろうが何でもOKである。つまり「何をしてもいいけど、全部自分で責任をとってね。でも死んでもしらんよ」という大人の考え方なのだ。
 管理責任を追及されるのが怖くて「あれはダメ。これもいけん!」と禁止条項オンパレードの河川行政が主流の中で、四万十流域の市町村はなかなかやるもんだ。事実、川遊びをする人が毎年最低1人は死んでいるそうだから、行政側も腰が据わっている。
 山あいを流れる四万十の日中は短い。テントを張り終わったら薄暗くなり、我が隊の本格的な活動は翌日に持ち越すことになった。
 ◇      ◇
 朝5時。
 ごそごそと起きだして水辺まで歩く。一夜の間に相当水が引いている。流れの中心は、まだ水の色がトルコブルーだが、浅いところは透明に見える。
 上流から吹いてくる風がやけに冷たい。それもそのはず。「四万十は太平洋に注ぐ川だから、上流は北側である」と一度は納得したが、「蛇行の具合で方角が変わるから、この場所がたまたまそう向いてるんだ」と納得し直した。
 今回の遠征からは、浜本隊員が料理担当として腕を振るうことになっていた。田村隊員は撮影、谷口隊員は野鳥観察、朝倉シェルパ隊長でさえ三脚運びという立派な任務を背負っているのに、浜本隊員には何にも任務を与えてなかった。
 そのことが、浜本隊員のヤル気を失くさせ、仕事を口実にして活動に参加しなかったり、雨蛙を殺して嫌がらせをする元になっていることに気づいたのだ。キャンプ用の食材は浜本隊員が中心になって、前日に中村市のスーパーで、豊富に仕込んでいた。
◇      ◇
 浜本隊員企画・製作最初の朝飯は、食パンとインスタントの味噌汁、そして特製ベーコンエッグの三品であった。
 ん!?特製?
 "特製"って名がついたらいかにもすごそうだけど、フライパンに卵を落とすとき、殻を割るのが下手で黄身が流れたため"特製"に格上げになった、全然すごくない"特製"なのであった。
 それにしても浜本隊員はTCBの番組の中で、以前は"浜本シェフ"などと言われていたようだが、ちょっといい気になり過ぎとらへんかなぁ。来る途中、米を忘れたと言って隊長を非難しておきながら、ご飯を炊かずにパンを食べさせるとは何事だ。
 でも、まぁいい。四万十では、行政も大人の対応をしているのだ。評価は昼飯まで待とうじゃないか。そう考えて、喉まで出掛かった不満を、生ぬるくなった味噌汁で腹の中に戻した。
 ◇      ◇
 午前中に本流でのロケを終え、四万十川最大の支流・黒尊川沿いを車で遡った。この黒尊川は数ある支流の中でも、屈指の透明度を誇っている。


▲清流に磨かれ、どの石も美しい(黒尊川で)

 四万十の本流が濁っていたからなおさらだったろう。黒尊川の清々しさの前には隊員一同「これぞ四万十!これぞ清流!」と唸らざるを得なかった。
 そうこうしているうちに、わずか8行で昼飯である。
 日陰を探して本流沿いを走り、岩間の沈下橋東詰めに狙いを定めた。橋付近の川辺には、上流から下ってきたカヌーが50パイほど。そして、体を休めている若い男女も50人ほどいた。
 何もこんな賑やかな場所で昼飯を食う必要はないのに、と思いながらも、他の川原に適当な日陰がなかったのだから仕方がない。50人の後方でいちゃついていたカップルを、4人の怪しい視線で追いやって、日陰の昼食会場を確保した。
 浜本隊員企画の2食目はカレーであった。ルーはレトルトだが、ご飯は高知県産の新米コシヒカリを炊くと言う。
 仕度といっても、レトルトカレー用の湯を沸かすこととご飯を炊くだけなので、浜本隊員にすべて任せることにした。おざなりなメニュー展開はいただけないが、隊員が育つのを長い目で見守ってやるのも隊長の務めというものだろう。
 とは思っていたが、その30分後にやってきた厳しい現実は、隊長の優しい心配りを簡単に翻させた。
 その理由については多くを語るまい。しかし、即刻、浜本隊員から料理人の肩書きをはずしたことだけは記しておく。
◇      ◇
 四万十滞在最終日。口屋内の沈下橋上手にある瀞場で10分ほど練習した後、我々は四万十を下るいっぱしのカヌーイストに変身した。
 「いやっほー」
 歓声をあげながら瀬を下り、沈下橋の下をくぐる。撮影用に何回となく繰り返しているうちに、初めのうちは少し怖かった瀬が、逆にカヌーの楽しさ・面白さを増幅させてくれることに気づく。カヌーを操る仕草が段々大胆になっていくのがわかる。


▲隊長の華麗なるカヌー姿。四万十の景色にすっかり溶け込んでいた

 ミズスマシのようにすいすいと動く船体。四万十の流れと一体になる爽快感。カヌーがこれほど楽しい乗り物だったとは・・・などと思っていたら、別の意味で大胆になった隊員がいるではないか。
 なんと二人乗りのカヌーの前席に水着姿の若い女性を乗せて、一目散に川を漕ぎ下っている。そういえば、200mほど下流に、死角になっている場所がある。もしかしたら、そこへ逃げ込もうというのか。


▲高知は南国。九月中旬でも川遊びが盛ん。彼女はこのあと、カヌーで下流へ

 まあいい、高知は南国。開放的な土地である。少々の暴走は大目に見ようじゃないか。名前も伏せておこう。
 それにしても9月も中旬だというのに暑い。沈下橋の上から川に飛び込んでいる若者たちがやけにまぶしい。でも、うらやましいとは感じるけど、一緒になって飛び込もうとは思わない。
 やっぱり中年だわなぁ…ん?そういえば今回は一回もヒィーヒィー言わなかったぞ!
 でも、まぁいいか。カヌーの撮影も終わったし早く車のエンジンかけて涼まねば。
 「浜ちゃーん!車のエンジンかけてよー」
 「えー?カメラを保管するって、さっき田村さんがキーを持ってってそのままですよー」
 そうか。田村カメラマンが持っているのか。えーっと…
 「あ゛〜、カヌーの上だー」
 それからおよそ1時間、残された3人は「ヒィーヒィー」言いながら、田村カメラマンの帰りを待ちわびたのであった。

2003年9月20日土曜日

四万十川遠征記(前編)〈Peak.5〉



 超大型の凶暴台風14号が日本海をうろうろしていたころ、我々は南国土佐にいた。中年ヒィーヒィー登山隊初の県外遠征は、9月13日〜15日の2泊3日。遠征先は、日本最後の清流として名高い、高知・四万十川である。
 荒れ放題の地元の川を何とかよみがえらせたい??そんな願いを秘めた "先進地視察"と言った方がいいのかもしれない。川原で寝泊りして、四万十の素晴らしさを文字通り体全体で確かめようという計画だ。
 浜本隊員の運転するワゴン車が、中年ヒィーヒィー登山隊公認の遠征オフィシャルカーになった。
◇       ◇
 四万十川は、高知県西部の中村市で太平洋に注いでいる。本流の全長は196km。四国最長の大河で、日本の河川では珍しい、専業の川漁師がいることでも知られている。
 13日、夜が明けきらぬうちに出発。オフィシャルカーの中は、荷物で埋まっている。お金で便利さを買わない(ホテルに泊まらない)のだから、荷物が多くて当たり前である。いつもの登山だとレトルト食品で済ましてしまうご飯も、今回は米と土鍋持参で、毎食炊くことになっていた。
 瀬戸大橋の上で、台風の名残の強風を横からもろにくらう。ハンドルを握る浜本隊員の横顔が緊張で引きつっている。引きつった顔が固まってしまわないうちに、途中で与島に下りて朝ご飯を食べることにした。昼食からは四万十川でキャンプ生活。自分達で作らない最後の食事である。
 「あれー、米と土鍋、荷物の中にありましたかねぇ?」
 モーニングセットのロールパンをパクつきながら浜本隊員が皆に問いかけた。その瞬間、何日か前に「うちは米を作っとるし、土鍋と一緒に持ってきたるわ」と安請け合いしていたことを思い出した。
 パンを食いながら、なんで米のことを思い出すのかわからなかったが、ともあれ当事者として、そして隊長として、その場を繕わなくてはならなかった。
 「あー、米ね。やっぱり四万十に行く以上はどっぷりそこの風土に浸らないかんしね。米も四万十川の水で作った米の方がいいと思って、持ってこんかった。それに、同じ食うなら去年の米より新米の方がええだろうがー」
 この説得力のある理由の前には反論などあるはずもない。隊員一同ナットク!土鍋に言及する者すらいなくなった。
 情けない隊員を抱えていると、簡単に物を忘れることさえ出来やしないなぁ…。
 河口のある中村市には、予定より3時間ほど遅れて、午後2時頃に到着。事前に地図をほとんど見なかったから、もとよりズサンな計画なのはわかっていたが、いくらなんでも3時間はないだろう。おかげで、昼飯も外食するはめになった。
 計画能力のある隊員を抱えてさえいれば、隊長自ら苦しむこともないのになぁ…。などと嘆いてばかりもいられなかった。この日は下流域のロケハンをして、暗くなる前にテントを設営しなければならないのだ。
 今度は慎重に地図を見ながら河口へと急いだ。
◇      ◇
 四万十川は、さすが四国最長の大河らしく、圧倒的な存在感でヒィーヒィー隊を迎えてくれた。河口付近の川幅は500mを超えている。とにかく広い。そしてその川幅いっぱいに、薄いトルコブルーに濁った水が、深く、深く流れている。


▲三脚にも清流を満喫させるカメラマン田村

 河口の木陰に、老人達が10人ほど集まって、何を話すでもなく川を見ていた。さすが南国。寒い国の勤勉な人たちには考えられない光景である。台風の影響で上流に大雨が降って濁りが出ている、という。
 「普段はここいらでも顔が写るほど透き通った水が流れておるんやけんどなあ」
 一人の老人が我々の不運を気の毒がった。その顔には、四万十川への誇りと愛情の深さが刻まれていた。


▲支流の黒尊川の清い流れに足を浸けながら川談義

 中村市を突っ切って上流へと向かう。この町の人口は3万5千。大河の河口の町にしてはいかにも貧弱である。もっとも、川自体がもつ自浄能力で、河口部でも水質を維持していくには、この程度の人口が限度なのかもしれない。
 市の中心部から川沿いを車で10分ほど走ると、佐田の沈下橋が現れる。沈下橋とは、大水のときに水面下に沈むように作られた橋のことで、流木などがひっかかって壊れることがないよう欄干がつけられていない。四万十川には本流に21ヶ所、支流も含めると合計58ヶ所に沈下橋があるという。


▲佐田の沈下橋。一番河口に近い沈下橋

 佐田の沈下橋からさらに車で遡ること20分。勝間沈下橋のそばの川原にテントを設営することにした。テントが沈下しないことを願いつつ。
(次号につづく)

■四万十川メモ
 名前の由来はアイヌ語の「シ、マムタ」=大変美しい川=という説と、支流の数が4万を超えるほどたくさんあるという2つの説がある。不入山(1,336m)の東斜面が源。支流総数318。四国西南地域を大きく蛇行しながら、落差のない流れとなって、中村市で太平洋に注ぐ。おもな魚種はアユ、ウナギ、カワエビ、モクズガニなど。その数94種で日本一。日本の青のりの8割は四万十産。

2003年8月20日水曜日

"新滝夢見て1か月"の巻〈Peak.4〉



 「すいません。地図に載っていない新しい滝を見つけたんですけど、どうしたら自分たちで名前をつけて登録できますかねぇ」
 国土地理院に問い合わせたのは6月の終わりごろ。国土地理院が東京ではなく茨城県にあることもそのとき初めて知った。もちろんその時点では、新しい滝など見つかってはいなかったが「これから見つける予定なんで」とは恥ずかしくて言えなかった。
 「とりあえず、国土地理院のホームページの中にある25,000分の1の地図に、滝の場所を明示して、メール送ってもらえますか。こちらでチェックして、具体的な調査が必要ならその旨連絡します」
 国土地理院の担当者は、なんとも事務的に説明した。
 「あのう、滝の高さとか幅とか写真とかは要らないんでしょうか」
 「あー、いいですよ。調査は広島の出先の方で行いますからね」
 担当者の言葉には茨城訛りもなかった。
◇      ◇
 目指す滝は、東伯町の山川谷川にあることになっている。この川は矢筈ヶ山を源に、4 あまりの峡谷をつくって、三本杉で加勢蛇川に合流する。
 "やまかわだにがわ"というややこしい名前がついているが、普段は"やまがだに"と呼ばれ、渓流釣りのシーズンだけ、たま〜に人がいるという、わりと寂しい川である。
 「名前のついてない滝がある」という情報は古長のIさんからのもの。Iさんは、山菜採りや釣りで地元の山・川関係の地理を熟知しており、信頼できる情報なのは明らかだった。
 7月2日の夕方、われわれは三本杉から林道に入り、その終点付近にベースキャンプを建設した。建設した、と書けば、「大げさなこと言うな」と叱られそうだが、ベースキャンプはいつの世も「建設する」ものなのだ。
 その核となる6人用のテントは前室つき。床つきの母屋には隊長と正隊員計4人が、床なしの前室にはシェルパ隊長が寝る決まりになっている。床といってもテント地一枚だけだから、そんなに劣悪な環境をシェルパ隊長に押し付けているわけではない。
 母屋と前室の広さが同じということを考えれば、広いスペースを独占しているシェルパ隊長の方が、いい環境なのではないだろうか。
 ん?もしかしたら本当にそうなのかな?もしそうだとしたら…なんか、だんだん腹が立ってきたぞ。今度一回、場所をチェンジしてみる必要があるかもなー。


▲ファイト一発!山川谷にはいくつもの難所が待ち構えていた

 テントで一晩、じっくり探検の構想を練って、翌早朝に滝探しの旅を始めようという今回の計画。夜から翌日にかけての天気予報は"雨時々曇り"と今ひとつだったが「梅雨の時期の天気予報は当たりゃーせん」と、無視を決めこんだ。
 案の定、曇ってはいるが雨の気配はまったくなく、7月なのに五月雨式に5人全員が集まるのを待って本格的な山の宴が始まった。
 今回は、というよりも今回も炭火焼。カメラが回れば、さすがーと言われるようなメニューを考える自信があるのだが、映らんもんに手間ひまかけるのはポリシーに反する。ただし、炭を二種類用意した。3キロで198円のやつと898円のやつ。898円には備長炭などと書いてある。198円で着火させて898円で火を長持ちさせようという狙いだ。
 アルミホイルとバターなども駆使して、炭火焼=焼肉ではなく、炭火焼=炭火焼という、どこに出しても恥ずかしくない正しい関係も生まれていた。
◇      ◇
 日が暮れて1時間もたつと、山の気温は急激に下がる。皆が上着を着込んだ。テント地が夜露に濡れている。ついでに炭までしけてきた。少し前までオレンジ色に燃え盛っていた898円が、何とも危なっかしい雰囲気に変わっている。
 炭火焼から火をとると炭焼になるが、これでは食べられないなぁ、などと考えていると、朝倉シェルパ隊長が動いた。すっくと立ち上がると車のドアを開け、一本のスプレー缶を取り出した。虫退治をするために持ってきていたキンチョールである。
 「これ使っていいですかねー」
 「ええでー。蚊にでも刺されたんか」
 「ちょっと網をどけてもらえます?」
 シェルパ隊長はそう言うと、田村カメラマンから借りたライターを右手に握り締め、キンチョールを噴射しながら火をつけた。
 ゴォーッという音とともに、勢いよく繰り出される火炎。 「変身!」というかけ声は聞こえなかったが、嬉々とした彼の眼は明らかに"恐怖のキンチョーバーナー男"への変身を果たしていた。そして、炭火は見事に復活した。しかし、とてもテレビでは放送できなかった。
 翌朝は雨。再計画した日程も雨。再々計画の日程も雨。そしてもう一度雨。なんと実際に決行できたのは5度目の正直、1ヶ月後の8月1日であった。
◇      ◇
 林道の終点から登山道に入る。ルートのほとんどは、杉の人工林の中を進むことになる。戦後植林された杉と檜は、手入れがされず枝が繁茂して、林の中には一筋の光さえ入り込めない有様だ。用材としての利用価値もなく、針葉樹の性格上、水源の涵養という役割もほとんど果たさないとすれば、まさに"負の遺産"である。


▲新しい滝の落差はおよそ10メートル

 だが、その杉林にも、間伐の手が入るらしく、樹木は一本一本チェックされ、登山道も草が刈られていた。でも、ヘリで間伐材を搬出するとなると、ものすごく高価な遺産になることは間違いない。
 山川谷には、名前のついている滝が三つある。下流側から二児(ふたご)滝、三本杉滝、飯盛(いいもり)滝である。目指す滝は、Iさんの情報から、三本杉滝の上流にあるだろうという見当がついていた。
 見当がついているのはいいのだが、登山道から谷に下りるルートは限られている。
 バキッ!ズルッ!ゴン!あーっ!
 様々な音と悲鳴が沢筋に響き、全員が泥だらけになって谷に下りた。
◇      ◇
 「簡単に見つけられる滝なら、とうの昔に見つけられて名前がついとるわい」と自分に言い聞かせなければならないほど、三本杉滝を巻くルートは困難を極めた。テレビには映ってはいないが、まさに命がけ。田村カメラマンも、何を思ってか、命の次に大切なはずのテレビカメラをしっかりとザックにしまいこみ、崖に取り付いている。ん?命の次…だから、それでいいのか。
 でも誰か谷底へ転落するかもしれない、千載一遇ともいえる撮影チャンスなのに、指をくわえて見逃すようではカメラマン失格と言われても仕方がない。
 崖と格闘すること1時間あまり。結局、新しい滝は、そのあとすぐに、われわれの前に現れた。しかし当初の「新しい滝に自分たちが名前をつけて地図に登録する」という目的は、まだ果たせないでいる。
 訛りがなかった国土地理院の担当者は、「広島から調査に行くのは、来年になるのか5年先になるのか、わかりませんねー。なんかのついでがないと」と冷たい返事。
 え〜えい、こうなったら何十と滝を見つけて絶対来んといけんようにしたるワイ!

2003年6月20日金曜日

「登山禁止の山」の巻〈Peak.3〉



 烏ヶ山は、地震以来ずーっと登山禁止のままだけど、どうなっとるんかなぁ・・・。
 5月のこの企画で、朝飯前に矢筈ヶ山に登った時、南側にそびえる勇壮な烏ヶ山を眺めながらふとそんなことを思った。早速、その場で「6月は烏にしょうか」と提案したら、普段はおっとりした田村カメラマンがすぐに反応した。
「えーっ、カラス!? またバードウオッチングですかぁ?」
 腹が減って頭がおかしくなったんじゃないか、と思って無視していたら、谷口隊員はしっかりと理解してくれていた。
「何で登山禁止が長引いているのか、調べてみるのもいいですね」
 さすが根っからのナチュラリストである。「山=キノコ。山=鳥」という単純発想しかできないカメラマンとは自然への思い入れが違う。年齢が上だから、という理由だけで筆頭隊員の称号"その?"を与えてあるのに、こんなことじゃ何年たっても隊長位を禅譲できないではないか。
 というわけで、朝飯前の山頂ミーティングは、登山隊の将来に警鐘を鳴らすとともに、「6月はカラス」という意思統一をもたらしたのであった(ただ1人を除いて…)。
◇     ◇
 6月3日夕。大山・鏡ヶ成キャンプ場。下界では真夏日を記録していたが、さすがに約1,000mの標高。半袖では寒い。皆が上着を着込んだ。サイトのすぐそばでは5時を過ぎたというのに、オートキャンプ場に改装するための突貫工事が進められている。
 「今どき、わざわざオートキャンプ場にする
なんて。そんな発想だから烏ヶ山を2年8か月も登山禁止にせないけんだがなー」と苦々しく思いながら、テントの設営に取りかかった。
 今回は、鏡ヶ成キャンプ場に1泊して、翌朝5時から烏ヶ山の山頂アタックを始めようという計画である。
 朝倉シェルパ隊長は、仕事の都合で、一足後れて合流することになっている。
「ええなー、シェルパ隊長は。テントや晩飯の準備ができてから来たらええだけなぁ」
前回、1日後れで合流して、冷えたビールを持ってこさせられた浜本隊員は不平たらたらである。
 晩飯は焼肉。アウトドアライフを極めようという我々が、そんな安易な献立でいいのか?とは考えたが、「今回は飯を食うところの撮影はせんし、まっ、ええか」と簡単に妥協してしまった。
 実は、もう一つ妥協してしまったことがあった。
 ある忘れ物をしたことに気づいていたのに、得意の「まっ、ええか」で(家へ)取りに帰らなかったのである。
 その忘れ物とは、5月の矢筈行きの時に揃えたヘッドランプ。隊長自ら、「これは名誉ある隊員のあかしだ」と隊員たちに分け与えたいわくつきの品であった。
 8時前になってようやく朝倉シェルパ隊長が到着した。取材が長引いたのに加え、ヘッドランプを忘れたのに気づいて家へ取りに帰ってきたという。
 聞かれもせんのに、いらんことを言う奴だ。おかげで、「シェルパのくせして、何の準備もせんとは何事だ」と文句を言ってやろうと手ぐすね引いていた浜本隊員の矛先が、あろうことかこちらに向けられてしまったのだ。
「たーいちょーう」
さっきまでは、敬意に満ち満ちていた浜本隊員の口ぶりが明らかに変わった。
「朝倉くんは、取りに帰ったそうですよー」
「このキャンプ場には照明があるだけ、ヘッドランプはいらんがないや」
「そういう問題じゃないでしょう」
 いかん。どうも分が悪い。こういう時は、がばがば酒を飲んで酔っ払ってしまうに限る。
 隊員たちの頬を照らすカンテラの灯り。冷たい風が時おり吹きぬけ、木々の枝が騒ぐ。
「鏡ヶ成の夜はなんだか寂しいなー」と思いながら、足もとには空き缶が増えていった。
◇     ◇
 翌朝4時半。まだ薄暗いのに「トッキョキョカキョク」とホトトギスがテントのすぐそばで鳴く。寒い。コンロで湯を沸かしコーヒーを入れた。
 何だか調子が悪い。前夜、「僕はもう寝る時間ですから」と酒を飲むのを早々にきりあげて一番早く寝たくせに起きてこない谷口隊員を叱る気力もない。
「風邪かなぁ。それとも枕なしで寝たせいかなー」などと思いをめぐらしながら、準備を急いだ。
 テントをそのままにして、5時すぎに出発した。最も一般的な烏ヶ山登山ルートは、キャンプ場から県道を横切ったところにその登り口がある。
 [鳥取県西部地震のため登山道が崩壊し、とても危険なため登山を禁止します]
 さも当然のように立てかけられた看板が、妙に腹立たしい。危険かどうかは登山者が判断すればよい。その責任は登山者が負えばいいのだ。この国特有の幼稚な自然管理は、国民から"真に自然に親しむ意識"を奪っている。オートキャンプ場や親水公園などはその典型だろう。
 なんだか急に社会派真面目モードになってしまったが、歩き始めて少しして、頭痛と吐き気が襲ってきた。なんと、調子が悪かったのは二日酔いモードに突入していたからだったのだ。ハハハ…。
 烏ヶ山の登山道は、ほぼ一直線に切ってある。ということは、山頂までの距離は短いが、一歩一歩がとても「エラい」ということなのだ。二日酔いの体には何とも厳しい現実である。だが、隊長たるものそんなことにひるんではいられない。「少し進んで、ながーく休むのが登山の極意だ」と隊員たちに教授しながら歩を進めた。
◇     ◇
 歩いてヒィーヒィー、休んでもヒィーヒィー。そんな繰り返しがおよそ2時間半。森林限界を越えてようやく崩壊現場に着いた。
 確かに登山道が崩れ、大きな石が不安定に横たわっているが、ルート探しは、それほど難しくはなさそうだ。
 実は、この登山を決行する何日か前、登山禁止の看板に地元の行政として名を連ねている江府町役場の担当者に、禁止が長引いている理由を電話で問い合わせていた。
 返答は「修復には莫大な費用がかかるので、禁止を解く予定はありません」というもの。
 何とも役場職員らしい答えに、それ以上突っ込んで問いただす気も失せたのだが、実際その場に立ってみると、「ロープ1本張れば何てことないがな」というのが率直な感想だ。
 登山禁止にはなっているが、登山道はきっちり踏み固められており、実際にたくさんの人が登っていることがすぐわかる。事実この日も我々の他にも山頂に登った人がいた。
 美しい山はみんなの財産である。いつまでも禁止の看板を盾にして逃げることは許されない。
 またまた社会派真面目モードになってしまったが、二日酔いモードは、このあたりから徐々に改善し始めた。同時にまわりの美しさが一層際立ち始めたのがわかる。
 初夏の爽やかな風。目に痛いほどのキャラボクの深い緑。烏ヶ山山頂の男性的な姿。そしてその後ろに控える大山の南壁も素晴らしく魅力的だ。



◇     ◇
 撮影と休憩を繰り返したとはいえ、何とスタートから4時間もかかって山頂に到着した。通常の倍の時間を費やしたことになる。
 「富士には月見草がよく似合う」と言ったのは誰だったろう。烏ヶ山には中年登山隊が似合ったかどうかわからないが、山の飯には、やはり冷えたビールが良く似合った。
 久しぶりの烏ヶ山がプレゼントしてくれた360度のパノラマ。今度この景色を見るのは、いつになるのだろうと思いながら、その全景をしっかりと網膜に焼き付けた。
 そして氷詰めにして持ってあがってきた缶ビールを性懲りもなく飲みながら、隊長として心掛けなくてはならない大切なことを心に刻んだ。

ヘッドランプを絶対に忘れるな?

2003年5月20日火曜日

バードウオッチング登山記〈Peak.2〉



 「ピーヒィーリリ、ピピーピィーリ」
これはバードウオッチャーの“幸せの青い鳥”オオルリのさえずりである。
 「ヒィーヒィー、ヒィーヒィーヒィー」
これは鳥ではない。四十路を越えた男達の“山登りの詩(うた)”である。
 というわけで今回は1泊2日のバードウオッチング登山記。参加したのはこのページに紹介してある5人のメンバー、と言いたいところだが、浜本隊員が欠けた。仕事が入っていてどうしても抜けられないと言う。
 「1日だけ日程をずらしましょうよ。そうすれば参加できますから」と訴えていた浜本隊員だったが、ずらせば朝倉シェルパ隊長が参加できなくなる事情があった。ヒラ隊員をとるか、シェルパ隊長をとるかと言われれば迷うわけがない。文句ひとつ言わずに三脚を担ぎ続けるシェルパ隊長はヒラ隊員より、はるかにエライのだ。
 山行の前日に浜本隊員から1枚のFAXが入った。
 ? きのう、田んぼに行ってアマガエルを100匹殺しました。雨が降ることを願っています。?
 なんちゅう隊員だろう。仕方がないから2日目に冷えたビールを持って合流することを許可した。
 そして当日。浜本隊員を除く4人が一向平に集まった。当然のことながら快晴である。いつの世も天気は正義に味方するのだ。
 それにしても荷物が多い。リベロ(三菱のバン)の荷台をぎっしり埋めている。4人の荷物がバランスよく配分できるよう、撮影機材や食料(アルコール含む)は荷造りせずに持ってきた。
 「なんでこんなに買ってくるんですかぁ」 
 隊長自らが食料の買出しに出向いたというのに、谷口隊員が露骨に不満を口にした。部下にひもじい思いをさせまいという隊長の配慮がわからないのだろうか。本来ならそんな隊員は即刻除名すべきなのだが、自分の担ぐ荷物が重くなるのでじっと我慢した。
 なんとか荷物をザックに押し込んで午後1時過ぎに出発した。1人当たり約15キロ。ずっしりと肩に食い込む重さである。この日のルートは、一向平から大山滝、大休口、三本杉分かれを通って大休峠まで。昔は大山寺や博労座へ通う人や牛馬が行き来したという大山道を歩くことになる。行程はおよそ5キロ。深山ならではの美しい野鳥を撮影しながら大山道を進み、大休峠の避難小屋に泊まる計画だ。
◇     ◇
 新緑が何種類もの色を携えて目に飛び込んでくる。薫風は爽やかそのもの。つづら折れの厳しい登りも、野鳥の美しいさえずりが苦しさをどこかへ追いやってくれる。「ピーヒィーリリ」これはオオルリ。「ケッ、ケッ」はアカゲラだ。
 「ヒィー、ヒィー」
 ん?これは何の鳥?と一瞬考えたが、じきに想像がついた。
 案の定、後ろを振り返ると、撮影担当の田村隊員があえいでいる。せっかく5月の山にどっぷり浸っていたのに、無粋な奴だ。先月の地獄谷行の時も一番ヒィーヒィー言ったのに、また今回もか。
 「撮影しながら、この登りはムチャクチャきついですよー」ほざけ、ほざけー。朝倉シェルパ隊長は撮影のたびに三脚を持って、急な坂を走ってき来しているのに、正隊員がそんな有様でどうする。
 そういえば田村隊員はこの山行のために、背中が汗でびっしょりにならない最新型のザックを仕入れ、シュラフも「羽毛のを買っちゃいました。2万円もしたんですよー」と、1週間も前から会社に持ち込んで自慢していたが、結局はこのていたらくだ。体力のないカメラマンはシェルパ隊員に格下げした方がいいのかもなぁ。
◇     ◇
 行程の3分の2を過ぎたあたりから、雪渓が目立ち始めた。空気がひんやりして、火照った体に心地よい。肝心な鳥の映像も、コゲラとアカゲラ、2羽のキツツキ類を撮影できた。後は、避難小屋に向かうだけである。
 小屋には5時に到着。陽が落ちないうちに晩飯の支度をしなければならない。シェルパ隊長は近くの水場に水汲みに、隊員達はたき火用のたきぎ拾いと、まるで昔話の桃太郎の世界だ。
 メニューは、レトルトのカレーとライス、フリーズドライの豚汁、登山道の脇で調達した山菜の女王・コシアブラの天ぷら、ベーコンとキノコの炒め物、の4品である。それに、バーボンとワイン、つまみの乾き物が加わり、とても山小屋の飯とは思えない豪勢な内容だ。
 言い忘れたが、キノコももちろん現地調達品。季節はずれのナラタケは大山滝の先に、ヒラタケは小屋のすぐそばに生えていた。日頃の行いの良さの賜物である。
 大休峠の良いところは、水場がすぐ近く(小屋から200mもない)にあること。なくなればすぐ汲みにいけばよい。シェルパ隊長は、マラソンランナーらしく、走って何度も往復した。でも、いつも持って帰ってくるのは水だけ。「桃を持って帰らなきゃ桃太郎にならないだろう」とは思ったが、中から子どもが出てきても困るし、あえて指摘しなかった。


 たき火を囲んでの宴は9時でお開き。大人の男らしく、騒がず、はしゃがず、自然界の神秘などを話題にしながら深山の暗黒に溶け込んでいった。(ホントは小屋の宿泊客が他にもあったため騒げなかったのだ)
 夜中寒くて目が覚め、用足しに出たついでに温度計を見たらなんと3度。ついでに空を見上げたら無数の星が、夜空一面にまたたいていた。
◇     ◇
 翌朝は小屋との標高差約250mの矢筈ヶ山(1,359m)へ。6時に出発して鳥を探しながらヒィーヒィー登って、8時前には山頂に着いた。日本海方面は少しガスがかかっていたが、大山と烏ヶ山は青空を背景にクリアなパノラマが広がっていた。1時間ほど山頂に滞在して下山。下りる途中、枯れかかったブナの梢にいたクロジ(ホオジロ類)を撮影した。
 文字通り“朝飯前の一仕事”を終えて、10時に遅い朝食。昨夜とはうって変わって、ごはんとスープ、海苔とベーコンの余りだけの質素なものだ。計画性がないと言われればそれまでだが、昼には浜本隊員がビールを持って来ることになっている。だから朝食はこれでいいのだ。なんだかバカボンのパパ調になってしまったが、これでいいのだ。
 11時に下山開始。オオルリの鳴き声に耳をそばだてながら、何とか姿を見つけようと、ゆっくりと山を下りていく。
 ケイタイの入りが悪いとはいえ浜本隊員と連絡がとれないのが気になる。本当に冷たいビールを持って上がってくるのだろうか。もしかしたら、仕事を理由に、今日も来ないつもりじゃないのだろうか。アマガエルのたたりはないのだろうか??様々な思いが頭の中をよぎった。
 この日は土曜日ということもあって、多くの登山客が山を登ってくる。だが、浜本隊員は一向に姿を見せる気配がない。ケイタイも相変わらずつながらない。
 正午をまわり「もう、たぶん来んなー」という声が出始めた。オオルリも鳴き声こそするが、カメラに収まってくれない。落胆しながら、フリーズドライの昼飯を食おうとしたその時である。
 「たいちょー」
 木立の間から聞いたことのあるような声がした、ような気がした。空耳か?いや、そうじゃない。確かに聞こえた。100mほど下がった場所だ。目をこらすと、息せき切って登山道を早足で上ってくる中年の男。大きな声では言えないが、アマガエルを犠牲にして自らの欲望を達成しようとした、あの浜本隊員である。背中のザックが重そうだ。
 「氷の中にビール入れて持ってきましたー」
 浜本隊員はそう言うと、オオルリのさえずりが聞こえないほどの荒い息づかいとともに、地べたに這いつくばった。
 「ヒィー、ヒィーヒィー、ヒィー、ヒィー、ヒィーヒィー」
 「うるさい!オオルリの鳴き声が聞こえんがなー」

2003年4月20日日曜日

誕生!中年ヒィーヒィー登山隊〈Peak.1〉


▲雪渓の残る地獄谷を歩く隊員とシェルパ

 4月×日、絶好の登山日和。一向平に4人の勇士が集結した。
 前田英人、田村博文、谷口真一、浜本幸之、いずれも40代の気鋭。TCBが選りすぐった"地獄"ならぬ地獄谷へのアタック隊だ。
 そうそう、忘れていた。もう1人いた。朝倉俊之。20代の長身マラソンランナーでTCBの新入社員。彼には、アタック隊が疲れないように、カメラや三脚を地獄谷へ運ぶシェルパ隊長を申しつけた。
 「隊長になったのは光栄なんですが隊員は?」という声が聞こえたような気がしたが無視した。いないに決まっている。世の中そんなに甘くない。
 野営場の林の中からはウグイスのさえずり。春のやわらかな陽を浴びて、まるで天国を目指すかのような、のどかな旅立ちであった。
 つり橋や大山滝などの撮影をこなし、アタック隊は地獄谷への入り口があるヒノキ林へ。林の中はなんと1mを超える雪が残っていた。雪はしまっていて歩きにくくはないが、地獄谷に下りたら、ほんとに地獄のような苦しさが待ち受けているんじゃないだろうかと不安がよぎる。隊員の足取りが重くなった。
 でも、シェルパ隊長は相変わらずだ。1人だけ、ザッ、ザッと大股で軽やかに進んでいく。スタートから2時間あまり。ず〜っと三脚(約7キロ)をかついできて、そろそろ音を上げてもよさそうな頃なのに…。面接試験の時、「体力だけは自信があります」と言っていたのは嘘ではなかったようだ。
◇     ◇
 地獄谷は、まるでえんまさまが叫んでいるような轟音を響かせてアタック隊を迎えた。
 水量がいつもの倍はある。普段だと上流へ向かうには、ルートを探しながら何回も川を渡るのだが、顔を出しているはずの石が沈んでしまっている。両岸にせり出す雪庇(せっぴ)もうっとうしい。困った。ルートが見つからない。長靴に水が入るのをいとわず流れの中を歩くか、それとも雪崩れた急斜面を進むか、選択肢は二つしかなかった。いや、もうひとつあった。あきらめて引き返す道である。
 三者択一は得意だ。長靴に水が入ると冷たいし、急斜面を歩くには危険すぎる。となると、答えは一つしかないが、隊長たるもの、もったいぶって威厳を見せなければ、隊員にしめしがつかない。
 窮地をあざ笑うかのようにミソサザイがさえずる。春だなぁ。
 そのミソサザイのさえずりをさえぎる奴がいた。
 「やめるのはいつでもできる。地獄で死ぬなら面倒がなくていい」あろうことか、隊長が決断を伝えていないのに、浜本隊員が口をはさんだのだ。それにしても普段は温和な浜本隊員、何かつらいことでもあったのだろうか。仕事?家庭?それとも・・・女?また三者択一だ。隊長の悩みはつきない。
◇     ◇
 浅いところでも水深は長靴の高さギリギリ。流れが速く水圧がすごい。
 谷口隊員がへっぴり腰で流れの中に立ち往生している。
「水が入ってもええがな。死にゃあせん」
 心ない野次があちらこちらから飛ぶ。でもこうしてチームワークが培われていくのだろう。
 えん堤を一つ越えて昼食。流れをすくって湯をわかしミソ汁をつくった。一向平を出てから3時間半。地獄谷の目的地・野田滝(地獄滝)まではまだ遠い。
 「行けるところまで行って、3時になったら引き返そう」
 帰りの時間を逆算すれば3時が限度。思慮深い隊長ならではのみごとな決断で、リュックをそのままにして、早々に腰を上げた。
 雪崩れも時には歓迎できた。ザイルが張ってある地獄谷一番の難所も雪がせりあがっていて難なくクリア、したかと思ったら新たな難所が待ち受けていた。流れが深く、横切る場所が見つからないのである。次のえん堤を上るためには、どうしても向こう岸に渡らなければならない。
 言いだしっぺの浜本隊員は、何とか流れを横切らずに済まそうと絶対に登れそうもない垂直の崖をよじ登ろうとしている。ずっと撮影を担当し、重いカメラ(約9キロ)を抱えていた田村隊員は「足がガタガタでもちません」と弱音を吐き始めた。谷口隊員は雪の上にへたり込んでいる。
 そんな情けない隊員たちを眺めながら落胆していた時である。流れの中をひょいひょいと軽やかに飛ぶ一つの影があった。
 地獄の救世主か?いや違う。
 朝倉シェルパ隊長だ!向こう岸に立って何食わぬ顔でこっちを見ている。一同あ然。谷口隊員などは拍手をする始末だ。
 彼が渡っていった場所をみると、確かに水の中に、運が良かったら飛んでいけそうな石が点在している。でも良識ある隊員にはとても真似ができそうもない。一度足を踏み外せば水温5度の氷風呂が待っているのだ。
 「シェルパが三脚もカメラも持たずに、何で先に渡っちゃうだいや」浜本隊員の悔しまぎれの一言が、轟音にかき消された。
 「シェルパに続け!」
 隊長の掛け声が、轟音を切り裂いた。
◇     ◇
 最大の難所をクリアしてからは、持久戦に突入した。ルートはほとんど雪の上。平場で2mほどある雪は、長い冬の間にみごとにならされ、地面の凹凸を隠してしまっている。雪崩れた場所では、雪が10m以上もの高さになり、本流がその下をくぐる。慎重に足場を確保しながら雪の急斜面を一歩、また一歩。「ヒィーヒィー」言いながら一歩、また一歩。隊員たちのしまりのなかった顔が、いつのまにか精悍な40代の男の顔に変わっている。


▲水量がいつもの倍あった。カメラを手渡しで進む

 このころ田村隊員から重大な事実が告げられた。撮影テープの残量がほとんどない、というのである。スペアは隊長のリュックの中。たぶん野田滝までは行けないだろうと判断して持ってこなかったのだ。これは隊長のミスか、それともカメラマンのミスか。もちろんカメラマンである。カメラマンたる者、将来起こるであろう事態を予測してカメラを回さなければいけない。
 「撮影したい場所があっても野田滝のためにとっておけ」
隊長の的確な指令に田村隊員は「ヒィーヒィー」と返事をした。
 そして午後3時。計ったような正確さで、男たちの目の前に野田滝が現れた。水量が多く、これまで何回か見た時のような優雅さはなかったが、それもまたよし。とりあえず全員が無事にたどりついたのでこれもまたよし。
 ミソサザイが「よしよし」と飛んで、滝の近くの岩場でさえずり始めた。
 地獄も捨てたもんじゃない。