▲記念撮影にもってこいのつり橋を見つけた。右手にある家の所有者がかけたものらしい(黒尊川で)
四万十川を一枚の写真で表すとするなら、ファインダーの中にぜひとも収めたいのが沈下橋である。この橋は、文字通り大水のときには水面下に沈む。欄干がないから、沈んでも水圧の影響が少なく、橋が流されない。
生きていくためには、川も橋も必要だから、川に敬意を払いつつ、橋も活かしていく。川とともに生きてきた流域の人たちの自然観がひと目でわかる橋である。
▲我々が川原にキャンプした勝間の沈下橋。長さおよそ170メートル。幅は4メートル
2泊3日の四万十川遠征。投宿先は勝間沈下橋のそばの川原に決めた。
河口から数えて四つ目の沈下橋である。中村市の中心部から車で30分ほどの距離。長さは171m、幅4mと並の大きさで昭和40年に造られた。
川原を選んだのは、我々の怪しい風体に合わせたから、ではない。四万十を理解するのに一番適している、と思ったからである。それともう一つ断っておくが、ねぐらにしたのは橋の"下"ではない。"そば"である。我々はれっきとした旅行者なのだ。
流れで丸く削られた大小様々の石を平らにならして、ロッジの敷地を確保した。
しかし広い。川原がムチャクチャ広い。一面石、また石。加勢蛇川の川原はクズと葦で埋め尽くされているが、正しい川原の姿はこうでなくっちゃいけない。
四万十の川原には車も自由に乗り入れることができる。どこにでも自由にテントが張れ、遊びの範囲を逸脱さえしなければ川漁も可。カヌーだろうが水泳だろうが何でもOKである。つまり「何をしてもいいけど、全部自分で責任をとってね。でも死んでもしらんよ」という大人の考え方なのだ。
管理責任を追及されるのが怖くて「あれはダメ。これもいけん!」と禁止条項オンパレードの河川行政が主流の中で、四万十流域の市町村はなかなかやるもんだ。事実、川遊びをする人が毎年最低1人は死んでいるそうだから、行政側も腰が据わっている。
山あいを流れる四万十の日中は短い。テントを張り終わったら薄暗くなり、我が隊の本格的な活動は翌日に持ち越すことになった。
ごそごそと起きだして水辺まで歩く。一夜の間に相当水が引いている。流れの中心は、まだ水の色がトルコブルーだが、浅いところは透明に見える。
上流から吹いてくる風がやけに冷たい。それもそのはず。「四万十は太平洋に注ぐ川だから、上流は北側である」と一度は納得したが、「蛇行の具合で方角が変わるから、この場所がたまたまそう向いてるんだ」と納得し直した。
今回の遠征からは、浜本隊員が料理担当として腕を振るうことになっていた。田村隊員は撮影、谷口隊員は野鳥観察、朝倉シェルパ隊長でさえ三脚運びという立派な任務を背負っているのに、浜本隊員には何にも任務を与えてなかった。
そのことが、浜本隊員のヤル気を失くさせ、仕事を口実にして活動に参加しなかったり、雨蛙を殺して嫌がらせをする元になっていることに気づいたのだ。キャンプ用の食材は浜本隊員が中心になって、前日に中村市のスーパーで、豊富に仕込んでいた。
ん!?特製?
"特製"って名がついたらいかにもすごそうだけど、フライパンに卵を落とすとき、殻を割るのが下手で黄身が流れたため"特製"に格上げになった、全然すごくない"特製"なのであった。
それにしても浜本隊員はTCBの番組の中で、以前は"浜本シェフ"などと言われていたようだが、ちょっといい気になり過ぎとらへんかなぁ。来る途中、米を忘れたと言って隊長を非難しておきながら、ご飯を炊かずにパンを食べさせるとは何事だ。
でも、まぁいい。四万十では、行政も大人の対応をしているのだ。評価は昼飯まで待とうじゃないか。そう考えて、喉まで出掛かった不満を、生ぬるくなった味噌汁で腹の中に戻した。
▲清流に磨かれ、どの石も美しい(黒尊川で)
四万十の本流が濁っていたからなおさらだったろう。黒尊川の清々しさの前には隊員一同「これぞ四万十!これぞ清流!」と唸らざるを得なかった。
そうこうしているうちに、わずか8行で昼飯である。
日陰を探して本流沿いを走り、岩間の沈下橋東詰めに狙いを定めた。橋付近の川辺には、上流から下ってきたカヌーが50パイほど。そして、体を休めている若い男女も50人ほどいた。
何もこんな賑やかな場所で昼飯を食う必要はないのに、と思いながらも、他の川原に適当な日陰がなかったのだから仕方がない。50人の後方でいちゃついていたカップルを、4人の怪しい視線で追いやって、日陰の昼食会場を確保した。
浜本隊員企画の2食目はカレーであった。ルーはレトルトだが、ご飯は高知県産の新米コシヒカリを炊くと言う。
仕度といっても、レトルトカレー用の湯を沸かすこととご飯を炊くだけなので、浜本隊員にすべて任せることにした。おざなりなメニュー展開はいただけないが、隊員が育つのを長い目で見守ってやるのも隊長の務めというものだろう。
とは思っていたが、その30分後にやってきた厳しい現実は、隊長の優しい心配りを簡単に翻させた。
その理由については多くを語るまい。しかし、即刻、浜本隊員から料理人の肩書きをはずしたことだけは記しておく。
「いやっほー」
歓声をあげながら瀬を下り、沈下橋の下をくぐる。撮影用に何回となく繰り返しているうちに、初めのうちは少し怖かった瀬が、逆にカヌーの楽しさ・面白さを増幅させてくれることに気づく。カヌーを操る仕草が段々大胆になっていくのがわかる。
▲隊長の華麗なるカヌー姿。四万十の景色にすっかり溶け込んでいた
ミズスマシのようにすいすいと動く船体。四万十の流れと一体になる爽快感。カヌーがこれほど楽しい乗り物だったとは・・・などと思っていたら、別の意味で大胆になった隊員がいるではないか。
なんと二人乗りのカヌーの前席に水着姿の若い女性を乗せて、一目散に川を漕ぎ下っている。そういえば、200mほど下流に、死角になっている場所がある。もしかしたら、そこへ逃げ込もうというのか。
▲高知は南国。九月中旬でも川遊びが盛ん。彼女はこのあと、カヌーで下流へ
まあいい、高知は南国。開放的な土地である。少々の暴走は大目に見ようじゃないか。名前も伏せておこう。
それにしても9月も中旬だというのに暑い。沈下橋の上から川に飛び込んでいる若者たちがやけにまぶしい。でも、うらやましいとは感じるけど、一緒になって飛び込もうとは思わない。
やっぱり中年だわなぁ…ん?そういえば今回は一回もヒィーヒィー言わなかったぞ!
でも、まぁいいか。カヌーの撮影も終わったし早く車のエンジンかけて涼まねば。
「浜ちゃーん!車のエンジンかけてよー」
「えー?カメラを保管するって、さっき田村さんがキーを持ってってそのままですよー」
そうか。田村カメラマンが持っているのか。えーっと…
「あ゛〜、カヌーの上だー」
それからおよそ1時間、残された3人は「ヒィーヒィー」言いながら、田村カメラマンの帰りを待ちわびたのであった。
四万十川を一枚の写真で表すとするなら、ファインダーの中にぜひとも収めたいのが沈下橋である。この橋は、文字通り大水のときには水面下に沈む。欄干がないから、沈んでも水圧の影響が少なく、橋が流されない。
生きていくためには、川も橋も必要だから、川に敬意を払いつつ、橋も活かしていく。川とともに生きてきた流域の人たちの自然観がひと目でわかる橋である。
▲我々が川原にキャンプした勝間の沈下橋。長さおよそ170メートル。幅は4メートル
2泊3日の四万十川遠征。投宿先は勝間沈下橋のそばの川原に決めた。
河口から数えて四つ目の沈下橋である。中村市の中心部から車で30分ほどの距離。長さは171m、幅4mと並の大きさで昭和40年に造られた。
川原を選んだのは、我々の怪しい風体に合わせたから、ではない。四万十を理解するのに一番適している、と思ったからである。それともう一つ断っておくが、ねぐらにしたのは橋の"下"ではない。"そば"である。我々はれっきとした旅行者なのだ。
◇ ◇
四万十に来ても、テントは相変わらず一つだけ。例によって旧式の6人用ロッジ型である。流れで丸く削られた大小様々の石を平らにならして、ロッジの敷地を確保した。
しかし広い。川原がムチャクチャ広い。一面石、また石。加勢蛇川の川原はクズと葦で埋め尽くされているが、正しい川原の姿はこうでなくっちゃいけない。
四万十の川原には車も自由に乗り入れることができる。どこにでも自由にテントが張れ、遊びの範囲を逸脱さえしなければ川漁も可。カヌーだろうが水泳だろうが何でもOKである。つまり「何をしてもいいけど、全部自分で責任をとってね。でも死んでもしらんよ」という大人の考え方なのだ。
管理責任を追及されるのが怖くて「あれはダメ。これもいけん!」と禁止条項オンパレードの河川行政が主流の中で、四万十流域の市町村はなかなかやるもんだ。事実、川遊びをする人が毎年最低1人は死んでいるそうだから、行政側も腰が据わっている。
山あいを流れる四万十の日中は短い。テントを張り終わったら薄暗くなり、我が隊の本格的な活動は翌日に持ち越すことになった。
◇ ◇
朝5時。ごそごそと起きだして水辺まで歩く。一夜の間に相当水が引いている。流れの中心は、まだ水の色がトルコブルーだが、浅いところは透明に見える。
上流から吹いてくる風がやけに冷たい。それもそのはず。「四万十は太平洋に注ぐ川だから、上流は北側である」と一度は納得したが、「蛇行の具合で方角が変わるから、この場所がたまたまそう向いてるんだ」と納得し直した。
今回の遠征からは、浜本隊員が料理担当として腕を振るうことになっていた。田村隊員は撮影、谷口隊員は野鳥観察、朝倉シェルパ隊長でさえ三脚運びという立派な任務を背負っているのに、浜本隊員には何にも任務を与えてなかった。
そのことが、浜本隊員のヤル気を失くさせ、仕事を口実にして活動に参加しなかったり、雨蛙を殺して嫌がらせをする元になっていることに気づいたのだ。キャンプ用の食材は浜本隊員が中心になって、前日に中村市のスーパーで、豊富に仕込んでいた。
◇ ◇
浜本隊員企画・製作最初の朝飯は、食パンとインスタントの味噌汁、そして特製ベーコンエッグの三品であった。ん!?特製?
"特製"って名がついたらいかにもすごそうだけど、フライパンに卵を落とすとき、殻を割るのが下手で黄身が流れたため"特製"に格上げになった、全然すごくない"特製"なのであった。
それにしても浜本隊員はTCBの番組の中で、以前は"浜本シェフ"などと言われていたようだが、ちょっといい気になり過ぎとらへんかなぁ。来る途中、米を忘れたと言って隊長を非難しておきながら、ご飯を炊かずにパンを食べさせるとは何事だ。
でも、まぁいい。四万十では、行政も大人の対応をしているのだ。評価は昼飯まで待とうじゃないか。そう考えて、喉まで出掛かった不満を、生ぬるくなった味噌汁で腹の中に戻した。
◇ ◇
午前中に本流でのロケを終え、四万十川最大の支流・黒尊川沿いを車で遡った。この黒尊川は数ある支流の中でも、屈指の透明度を誇っている。▲清流に磨かれ、どの石も美しい(黒尊川で)
四万十の本流が濁っていたからなおさらだったろう。黒尊川の清々しさの前には隊員一同「これぞ四万十!これぞ清流!」と唸らざるを得なかった。
そうこうしているうちに、わずか8行で昼飯である。
日陰を探して本流沿いを走り、岩間の沈下橋東詰めに狙いを定めた。橋付近の川辺には、上流から下ってきたカヌーが50パイほど。そして、体を休めている若い男女も50人ほどいた。
何もこんな賑やかな場所で昼飯を食う必要はないのに、と思いながらも、他の川原に適当な日陰がなかったのだから仕方がない。50人の後方でいちゃついていたカップルを、4人の怪しい視線で追いやって、日陰の昼食会場を確保した。
浜本隊員企画の2食目はカレーであった。ルーはレトルトだが、ご飯は高知県産の新米コシヒカリを炊くと言う。
仕度といっても、レトルトカレー用の湯を沸かすこととご飯を炊くだけなので、浜本隊員にすべて任せることにした。おざなりなメニュー展開はいただけないが、隊員が育つのを長い目で見守ってやるのも隊長の務めというものだろう。
とは思っていたが、その30分後にやってきた厳しい現実は、隊長の優しい心配りを簡単に翻させた。
その理由については多くを語るまい。しかし、即刻、浜本隊員から料理人の肩書きをはずしたことだけは記しておく。
◇ ◇
四万十滞在最終日。口屋内の沈下橋上手にある瀞場で10分ほど練習した後、我々は四万十を下るいっぱしのカヌーイストに変身した。「いやっほー」
歓声をあげながら瀬を下り、沈下橋の下をくぐる。撮影用に何回となく繰り返しているうちに、初めのうちは少し怖かった瀬が、逆にカヌーの楽しさ・面白さを増幅させてくれることに気づく。カヌーを操る仕草が段々大胆になっていくのがわかる。
▲隊長の華麗なるカヌー姿。四万十の景色にすっかり溶け込んでいた
ミズスマシのようにすいすいと動く船体。四万十の流れと一体になる爽快感。カヌーがこれほど楽しい乗り物だったとは・・・などと思っていたら、別の意味で大胆になった隊員がいるではないか。
なんと二人乗りのカヌーの前席に水着姿の若い女性を乗せて、一目散に川を漕ぎ下っている。そういえば、200mほど下流に、死角になっている場所がある。もしかしたら、そこへ逃げ込もうというのか。
▲高知は南国。九月中旬でも川遊びが盛ん。彼女はこのあと、カヌーで下流へ
まあいい、高知は南国。開放的な土地である。少々の暴走は大目に見ようじゃないか。名前も伏せておこう。
それにしても9月も中旬だというのに暑い。沈下橋の上から川に飛び込んでいる若者たちがやけにまぶしい。でも、うらやましいとは感じるけど、一緒になって飛び込もうとは思わない。
やっぱり中年だわなぁ…ん?そういえば今回は一回もヒィーヒィー言わなかったぞ!
でも、まぁいいか。カヌーの撮影も終わったし早く車のエンジンかけて涼まねば。
「浜ちゃーん!車のエンジンかけてよー」
「えー?カメラを保管するって、さっき田村さんがキーを持ってってそのままですよー」
そうか。田村カメラマンが持っているのか。えーっと…
「あ゛〜、カヌーの上だー」
それからおよそ1時間、残された3人は「ヒィーヒィー」言いながら、田村カメラマンの帰りを待ちわびたのであった。