超大型の凶暴台風14号が日本海をうろうろしていたころ、我々は南国土佐にいた。中年ヒィーヒィー登山隊初の県外遠征は、9月13日〜15日の2泊3日。遠征先は、日本最後の清流として名高い、高知・四万十川である。
荒れ放題の地元の川を何とかよみがえらせたい??そんな願いを秘めた "先進地視察"と言った方がいいのかもしれない。川原で寝泊りして、四万十の素晴らしさを文字通り体全体で確かめようという計画だ。
浜本隊員の運転するワゴン車が、中年ヒィーヒィー登山隊公認の遠征オフィシャルカーになった。
13日、夜が明けきらぬうちに出発。オフィシャルカーの中は、荷物で埋まっている。お金で便利さを買わない(ホテルに泊まらない)のだから、荷物が多くて当たり前である。いつもの登山だとレトルト食品で済ましてしまうご飯も、今回は米と土鍋持参で、毎食炊くことになっていた。
瀬戸大橋の上で、台風の名残の強風を横からもろにくらう。ハンドルを握る浜本隊員の横顔が緊張で引きつっている。引きつった顔が固まってしまわないうちに、途中で与島に下りて朝ご飯を食べることにした。昼食からは四万十川でキャンプ生活。自分達で作らない最後の食事である。
「あれー、米と土鍋、荷物の中にありましたかねぇ?」
モーニングセットのロールパンをパクつきながら浜本隊員が皆に問いかけた。その瞬間、何日か前に「うちは米を作っとるし、土鍋と一緒に持ってきたるわ」と安請け合いしていたことを思い出した。
パンを食いながら、なんで米のことを思い出すのかわからなかったが、ともあれ当事者として、そして隊長として、その場を繕わなくてはならなかった。
「あー、米ね。やっぱり四万十に行く以上はどっぷりそこの風土に浸らないかんしね。米も四万十川の水で作った米の方がいいと思って、持ってこんかった。それに、同じ食うなら去年の米より新米の方がええだろうがー」
この説得力のある理由の前には反論などあるはずもない。隊員一同ナットク!土鍋に言及する者すらいなくなった。
情けない隊員を抱えていると、簡単に物を忘れることさえ出来やしないなぁ…。
河口のある中村市には、予定より3時間ほど遅れて、午後2時頃に到着。事前に地図をほとんど見なかったから、もとよりズサンな計画なのはわかっていたが、いくらなんでも3時間はないだろう。おかげで、昼飯も外食するはめになった。
計画能力のある隊員を抱えてさえいれば、隊長自ら苦しむこともないのになぁ…。などと嘆いてばかりもいられなかった。この日は下流域のロケハンをして、暗くなる前にテントを設営しなければならないのだ。
今度は慎重に地図を見ながら河口へと急いだ。
▲三脚にも清流を満喫させるカメラマン田村
河口の木陰に、老人達が10人ほど集まって、何を話すでもなく川を見ていた。さすが南国。寒い国の勤勉な人たちには考えられない光景である。台風の影響で上流に大雨が降って濁りが出ている、という。
「普段はここいらでも顔が写るほど透き通った水が流れておるんやけんどなあ」
一人の老人が我々の不運を気の毒がった。その顔には、四万十川への誇りと愛情の深さが刻まれていた。
▲支流の黒尊川の清い流れに足を浸けながら川談義
中村市を突っ切って上流へと向かう。この町の人口は3万5千。大河の河口の町にしてはいかにも貧弱である。もっとも、川自体がもつ自浄能力で、河口部でも水質を維持していくには、この程度の人口が限度なのかもしれない。
市の中心部から川沿いを車で10分ほど走ると、佐田の沈下橋が現れる。沈下橋とは、大水のときに水面下に沈むように作られた橋のことで、流木などがひっかかって壊れることがないよう欄干がつけられていない。四万十川には本流に21ヶ所、支流も含めると合計58ヶ所に沈下橋があるという。
▲佐田の沈下橋。一番河口に近い沈下橋
佐田の沈下橋からさらに車で遡ること20分。勝間沈下橋のそばの川原にテントを設営することにした。テントが沈下しないことを願いつつ。
■四万十川メモ
名前の由来はアイヌ語の「シ、マムタ」=大変美しい川=という説と、支流の数が4万を超えるほどたくさんあるという2つの説がある。不入山(1,336m)の東斜面が源。支流総数318。四国西南地域を大きく蛇行しながら、落差のない流れとなって、中村市で太平洋に注ぐ。おもな魚種はアユ、ウナギ、カワエビ、モクズガニなど。その数94種で日本一。日本の青のりの8割は四万十産。
荒れ放題の地元の川を何とかよみがえらせたい??そんな願いを秘めた "先進地視察"と言った方がいいのかもしれない。川原で寝泊りして、四万十の素晴らしさを文字通り体全体で確かめようという計画だ。
浜本隊員の運転するワゴン車が、中年ヒィーヒィー登山隊公認の遠征オフィシャルカーになった。
◇ ◇
四万十川は、高知県西部の中村市で太平洋に注いでいる。本流の全長は196km。四国最長の大河で、日本の河川では珍しい、専業の川漁師がいることでも知られている。13日、夜が明けきらぬうちに出発。オフィシャルカーの中は、荷物で埋まっている。お金で便利さを買わない(ホテルに泊まらない)のだから、荷物が多くて当たり前である。いつもの登山だとレトルト食品で済ましてしまうご飯も、今回は米と土鍋持参で、毎食炊くことになっていた。
瀬戸大橋の上で、台風の名残の強風を横からもろにくらう。ハンドルを握る浜本隊員の横顔が緊張で引きつっている。引きつった顔が固まってしまわないうちに、途中で与島に下りて朝ご飯を食べることにした。昼食からは四万十川でキャンプ生活。自分達で作らない最後の食事である。
「あれー、米と土鍋、荷物の中にありましたかねぇ?」
モーニングセットのロールパンをパクつきながら浜本隊員が皆に問いかけた。その瞬間、何日か前に「うちは米を作っとるし、土鍋と一緒に持ってきたるわ」と安請け合いしていたことを思い出した。
パンを食いながら、なんで米のことを思い出すのかわからなかったが、ともあれ当事者として、そして隊長として、その場を繕わなくてはならなかった。
「あー、米ね。やっぱり四万十に行く以上はどっぷりそこの風土に浸らないかんしね。米も四万十川の水で作った米の方がいいと思って、持ってこんかった。それに、同じ食うなら去年の米より新米の方がええだろうがー」
この説得力のある理由の前には反論などあるはずもない。隊員一同ナットク!土鍋に言及する者すらいなくなった。
情けない隊員を抱えていると、簡単に物を忘れることさえ出来やしないなぁ…。
河口のある中村市には、予定より3時間ほど遅れて、午後2時頃に到着。事前に地図をほとんど見なかったから、もとよりズサンな計画なのはわかっていたが、いくらなんでも3時間はないだろう。おかげで、昼飯も外食するはめになった。
計画能力のある隊員を抱えてさえいれば、隊長自ら苦しむこともないのになぁ…。などと嘆いてばかりもいられなかった。この日は下流域のロケハンをして、暗くなる前にテントを設営しなければならないのだ。
今度は慎重に地図を見ながら河口へと急いだ。
◇ ◇
四万十川は、さすが四国最長の大河らしく、圧倒的な存在感でヒィーヒィー隊を迎えてくれた。河口付近の川幅は500mを超えている。とにかく広い。そしてその川幅いっぱいに、薄いトルコブルーに濁った水が、深く、深く流れている。▲三脚にも清流を満喫させるカメラマン田村
河口の木陰に、老人達が10人ほど集まって、何を話すでもなく川を見ていた。さすが南国。寒い国の勤勉な人たちには考えられない光景である。台風の影響で上流に大雨が降って濁りが出ている、という。
「普段はここいらでも顔が写るほど透き通った水が流れておるんやけんどなあ」
一人の老人が我々の不運を気の毒がった。その顔には、四万十川への誇りと愛情の深さが刻まれていた。
▲支流の黒尊川の清い流れに足を浸けながら川談義
中村市を突っ切って上流へと向かう。この町の人口は3万5千。大河の河口の町にしてはいかにも貧弱である。もっとも、川自体がもつ自浄能力で、河口部でも水質を維持していくには、この程度の人口が限度なのかもしれない。
市の中心部から川沿いを車で10分ほど走ると、佐田の沈下橋が現れる。沈下橋とは、大水のときに水面下に沈むように作られた橋のことで、流木などがひっかかって壊れることがないよう欄干がつけられていない。四万十川には本流に21ヶ所、支流も含めると合計58ヶ所に沈下橋があるという。
▲佐田の沈下橋。一番河口に近い沈下橋
佐田の沈下橋からさらに車で遡ること20分。勝間沈下橋のそばの川原にテントを設営することにした。テントが沈下しないことを願いつつ。
(次号につづく)
■四万十川メモ
名前の由来はアイヌ語の「シ、マムタ」=大変美しい川=という説と、支流の数が4万を超えるほどたくさんあるという2つの説がある。不入山(1,336m)の東斜面が源。支流総数318。四国西南地域を大きく蛇行しながら、落差のない流れとなって、中村市で太平洋に注ぐ。おもな魚種はアユ、ウナギ、カワエビ、モクズガニなど。その数94種で日本一。日本の青のりの8割は四万十産。