▲雪渓の残る地獄谷を歩く隊員とシェルパ
4月×日、絶好の登山日和。一向平に4人の勇士が集結した。
前田英人、田村博文、谷口真一、浜本幸之、いずれも40代の気鋭。TCBが選りすぐった"地獄"ならぬ地獄谷へのアタック隊だ。
そうそう、忘れていた。もう1人いた。朝倉俊之。20代の長身マラソンランナーでTCBの新入社員。彼には、アタック隊が疲れないように、カメラや三脚を地獄谷へ運ぶシェルパ隊長を申しつけた。
「隊長になったのは光栄なんですが隊員は?」という声が聞こえたような気がしたが無視した。いないに決まっている。世の中そんなに甘くない。
野営場の林の中からはウグイスのさえずり。春のやわらかな陽を浴びて、まるで天国を目指すかのような、のどかな旅立ちであった。
つり橋や大山滝などの撮影をこなし、アタック隊は地獄谷への入り口があるヒノキ林へ。林の中はなんと1mを超える雪が残っていた。雪はしまっていて歩きにくくはないが、地獄谷に下りたら、ほんとに地獄のような苦しさが待ち受けているんじゃないだろうかと不安がよぎる。隊員の足取りが重くなった。
でも、シェルパ隊長は相変わらずだ。1人だけ、ザッ、ザッと大股で軽やかに進んでいく。スタートから2時間あまり。ず〜っと三脚(約7キロ)をかついできて、そろそろ音を上げてもよさそうな頃なのに…。面接試験の時、「体力だけは自信があります」と言っていたのは嘘ではなかったようだ。
水量がいつもの倍はある。普段だと上流へ向かうには、ルートを探しながら何回も川を渡るのだが、顔を出しているはずの石が沈んでしまっている。両岸にせり出す雪庇(せっぴ)もうっとうしい。困った。ルートが見つからない。長靴に水が入るのをいとわず流れの中を歩くか、それとも雪崩れた急斜面を進むか、選択肢は二つしかなかった。いや、もうひとつあった。あきらめて引き返す道である。
三者択一は得意だ。長靴に水が入ると冷たいし、急斜面を歩くには危険すぎる。となると、答えは一つしかないが、隊長たるもの、もったいぶって威厳を見せなければ、隊員にしめしがつかない。
窮地をあざ笑うかのようにミソサザイがさえずる。春だなぁ。
そのミソサザイのさえずりをさえぎる奴がいた。
「やめるのはいつでもできる。地獄で死ぬなら面倒がなくていい」あろうことか、隊長が決断を伝えていないのに、浜本隊員が口をはさんだのだ。それにしても普段は温和な浜本隊員、何かつらいことでもあったのだろうか。仕事?家庭?それとも・・・女?また三者択一だ。隊長の悩みはつきない。
谷口隊員がへっぴり腰で流れの中に立ち往生している。
「水が入ってもええがな。死にゃあせん」
心ない野次があちらこちらから飛ぶ。でもこうしてチームワークが培われていくのだろう。
えん堤を一つ越えて昼食。流れをすくって湯をわかしミソ汁をつくった。一向平を出てから3時間半。地獄谷の目的地・野田滝(地獄滝)まではまだ遠い。
「行けるところまで行って、3時になったら引き返そう」
帰りの時間を逆算すれば3時が限度。思慮深い隊長ならではのみごとな決断で、リュックをそのままにして、早々に腰を上げた。
雪崩れも時には歓迎できた。ザイルが張ってある地獄谷一番の難所も雪がせりあがっていて難なくクリア、したかと思ったら新たな難所が待ち受けていた。流れが深く、横切る場所が見つからないのである。次のえん堤を上るためには、どうしても向こう岸に渡らなければならない。
言いだしっぺの浜本隊員は、何とか流れを横切らずに済まそうと絶対に登れそうもない垂直の崖をよじ登ろうとしている。ずっと撮影を担当し、重いカメラ(約9キロ)を抱えていた田村隊員は「足がガタガタでもちません」と弱音を吐き始めた。谷口隊員は雪の上にへたり込んでいる。
そんな情けない隊員たちを眺めながら落胆していた時である。流れの中をひょいひょいと軽やかに飛ぶ一つの影があった。
地獄の救世主か?いや違う。
朝倉シェルパ隊長だ!向こう岸に立って何食わぬ顔でこっちを見ている。一同あ然。谷口隊員などは拍手をする始末だ。
彼が渡っていった場所をみると、確かに水の中に、運が良かったら飛んでいけそうな石が点在している。でも良識ある隊員にはとても真似ができそうもない。一度足を踏み外せば水温5度の氷風呂が待っているのだ。
「シェルパが三脚もカメラも持たずに、何で先に渡っちゃうだいや」浜本隊員の悔しまぎれの一言が、轟音にかき消された。
「シェルパに続け!」
隊長の掛け声が、轟音を切り裂いた。
▲水量がいつもの倍あった。カメラを手渡しで進む
このころ田村隊員から重大な事実が告げられた。撮影テープの残量がほとんどない、というのである。スペアは隊長のリュックの中。たぶん野田滝までは行けないだろうと判断して持ってこなかったのだ。これは隊長のミスか、それともカメラマンのミスか。もちろんカメラマンである。カメラマンたる者、将来起こるであろう事態を予測してカメラを回さなければいけない。
「撮影したい場所があっても野田滝のためにとっておけ」
隊長の的確な指令に田村隊員は「ヒィーヒィー」と返事をした。
そして午後3時。計ったような正確さで、男たちの目の前に野田滝が現れた。水量が多く、これまで何回か見た時のような優雅さはなかったが、それもまたよし。とりあえず全員が無事にたどりついたのでこれもまたよし。
ミソサザイが「よしよし」と飛んで、滝の近くの岩場でさえずり始めた。
地獄も捨てたもんじゃない。
4月×日、絶好の登山日和。一向平に4人の勇士が集結した。
前田英人、田村博文、谷口真一、浜本幸之、いずれも40代の気鋭。TCBが選りすぐった"地獄"ならぬ地獄谷へのアタック隊だ。
そうそう、忘れていた。もう1人いた。朝倉俊之。20代の長身マラソンランナーでTCBの新入社員。彼には、アタック隊が疲れないように、カメラや三脚を地獄谷へ運ぶシェルパ隊長を申しつけた。
「隊長になったのは光栄なんですが隊員は?」という声が聞こえたような気がしたが無視した。いないに決まっている。世の中そんなに甘くない。
野営場の林の中からはウグイスのさえずり。春のやわらかな陽を浴びて、まるで天国を目指すかのような、のどかな旅立ちであった。
つり橋や大山滝などの撮影をこなし、アタック隊は地獄谷への入り口があるヒノキ林へ。林の中はなんと1mを超える雪が残っていた。雪はしまっていて歩きにくくはないが、地獄谷に下りたら、ほんとに地獄のような苦しさが待ち受けているんじゃないだろうかと不安がよぎる。隊員の足取りが重くなった。
でも、シェルパ隊長は相変わらずだ。1人だけ、ザッ、ザッと大股で軽やかに進んでいく。スタートから2時間あまり。ず〜っと三脚(約7キロ)をかついできて、そろそろ音を上げてもよさそうな頃なのに…。面接試験の時、「体力だけは自信があります」と言っていたのは嘘ではなかったようだ。
◇ ◇
地獄谷は、まるでえんまさまが叫んでいるような轟音を響かせてアタック隊を迎えた。水量がいつもの倍はある。普段だと上流へ向かうには、ルートを探しながら何回も川を渡るのだが、顔を出しているはずの石が沈んでしまっている。両岸にせり出す雪庇(せっぴ)もうっとうしい。困った。ルートが見つからない。長靴に水が入るのをいとわず流れの中を歩くか、それとも雪崩れた急斜面を進むか、選択肢は二つしかなかった。いや、もうひとつあった。あきらめて引き返す道である。
三者択一は得意だ。長靴に水が入ると冷たいし、急斜面を歩くには危険すぎる。となると、答えは一つしかないが、隊長たるもの、もったいぶって威厳を見せなければ、隊員にしめしがつかない。
窮地をあざ笑うかのようにミソサザイがさえずる。春だなぁ。
そのミソサザイのさえずりをさえぎる奴がいた。
「やめるのはいつでもできる。地獄で死ぬなら面倒がなくていい」あろうことか、隊長が決断を伝えていないのに、浜本隊員が口をはさんだのだ。それにしても普段は温和な浜本隊員、何かつらいことでもあったのだろうか。仕事?家庭?それとも・・・女?また三者択一だ。隊長の悩みはつきない。
◇ ◇
浅いところでも水深は長靴の高さギリギリ。流れが速く水圧がすごい。谷口隊員がへっぴり腰で流れの中に立ち往生している。
「水が入ってもええがな。死にゃあせん」
心ない野次があちらこちらから飛ぶ。でもこうしてチームワークが培われていくのだろう。
えん堤を一つ越えて昼食。流れをすくって湯をわかしミソ汁をつくった。一向平を出てから3時間半。地獄谷の目的地・野田滝(地獄滝)まではまだ遠い。
「行けるところまで行って、3時になったら引き返そう」
帰りの時間を逆算すれば3時が限度。思慮深い隊長ならではのみごとな決断で、リュックをそのままにして、早々に腰を上げた。
雪崩れも時には歓迎できた。ザイルが張ってある地獄谷一番の難所も雪がせりあがっていて難なくクリア、したかと思ったら新たな難所が待ち受けていた。流れが深く、横切る場所が見つからないのである。次のえん堤を上るためには、どうしても向こう岸に渡らなければならない。
言いだしっぺの浜本隊員は、何とか流れを横切らずに済まそうと絶対に登れそうもない垂直の崖をよじ登ろうとしている。ずっと撮影を担当し、重いカメラ(約9キロ)を抱えていた田村隊員は「足がガタガタでもちません」と弱音を吐き始めた。谷口隊員は雪の上にへたり込んでいる。
そんな情けない隊員たちを眺めながら落胆していた時である。流れの中をひょいひょいと軽やかに飛ぶ一つの影があった。
地獄の救世主か?いや違う。
朝倉シェルパ隊長だ!向こう岸に立って何食わぬ顔でこっちを見ている。一同あ然。谷口隊員などは拍手をする始末だ。
彼が渡っていった場所をみると、確かに水の中に、運が良かったら飛んでいけそうな石が点在している。でも良識ある隊員にはとても真似ができそうもない。一度足を踏み外せば水温5度の氷風呂が待っているのだ。
「シェルパが三脚もカメラも持たずに、何で先に渡っちゃうだいや」浜本隊員の悔しまぎれの一言が、轟音にかき消された。
「シェルパに続け!」
隊長の掛け声が、轟音を切り裂いた。
◇ ◇
最大の難所をクリアしてからは、持久戦に突入した。ルートはほとんど雪の上。平場で2mほどある雪は、長い冬の間にみごとにならされ、地面の凹凸を隠してしまっている。雪崩れた場所では、雪が10m以上もの高さになり、本流がその下をくぐる。慎重に足場を確保しながら雪の急斜面を一歩、また一歩。「ヒィーヒィー」言いながら一歩、また一歩。隊員たちのしまりのなかった顔が、いつのまにか精悍な40代の男の顔に変わっている。▲水量がいつもの倍あった。カメラを手渡しで進む
このころ田村隊員から重大な事実が告げられた。撮影テープの残量がほとんどない、というのである。スペアは隊長のリュックの中。たぶん野田滝までは行けないだろうと判断して持ってこなかったのだ。これは隊長のミスか、それともカメラマンのミスか。もちろんカメラマンである。カメラマンたる者、将来起こるであろう事態を予測してカメラを回さなければいけない。
「撮影したい場所があっても野田滝のためにとっておけ」
隊長の的確な指令に田村隊員は「ヒィーヒィー」と返事をした。
そして午後3時。計ったような正確さで、男たちの目の前に野田滝が現れた。水量が多く、これまで何回か見た時のような優雅さはなかったが、それもまたよし。とりあえず全員が無事にたどりついたのでこれもまたよし。
ミソサザイが「よしよし」と飛んで、滝の近くの岩場でさえずり始めた。
地獄も捨てたもんじゃない。