今はどこにいったかわからないが、わが家に1枚の古い小さな写真があった。古いと言ってもたかが40数年前。昭和30年代のモノクロ写真である。
昨年話題になった映画『ALWAYS・三丁目の夕日』にも登場したオート三輪。写真は、マツダ製のオート三輪の荷台に山ほど人が乗っているものだった。
裏を見ると“一向にて”のキャプション。小学校に入るか入らないかぐらいの僕も写っていた。
もちろん、何をしたかはまるで覚えていないけど、たぶん村をあげて一向平へ行き、原っぱで飲んだり食ったり走ったり?して遊んだのだろう。名刺ほどのサイズだから顔は豆粒。でも笑顔がたくさん並んでいたのを覚えている。
その一向平は開拓の地。
もとは野井倉の人たちの土地(山)だったが、戦争が終わって国に強制買収され、昭和23年旧満州から引き揚げてきた13人が入植した。
開墾の困難さに加え、いくら手を入れてもなかなか肥えない土壌。冬の寒さと雪の多さも入植者たちを苦しめ続けた。
毎年一人去り二人去り・・・。高度経済成長の荒波が追い討ちをかけ、昭和47年には全員が一向平を下りた。
そして血と涙と汗によって切り拓かれた土地は日本パルプ、現在の王子製紙に売却された。
なんかプロジェクトXみたいな感じで、知ったかぶりして書いてしまったが、全部、一向平の今昔に詳しい松本薫さん(野井倉)の受け売りなのだ。
もう一度歩いたら、何か思い出すかもしれないなぁ・・・なんて軽く考えたのが今回の企画。まずは田村隊員と一緒に浦安駅から100円バスに乗りこんだ。
なんで森藤から歩かずに100円バスに乗るだいや、なんて指摘が聞こえてきそうだが、軽く考えているから何も問題ないのだ。
高松で谷口隊員、下大江で末石隊員、カウベルホールでは朝倉シェルパ隊長がドカドカと乗り込んできた。
たった100円しか払わないのに、浦安駅からずっと貸し切り状態でくつろいでいたら、下光好を過ぎたあたりから末石隊員がバスの後方をしきりに気にし始めた。
聞けば、忘れ物をして、奥さんがそれを届けにバスの後を着いてきているという。
運転手さんに事情を話して、『切り込み』のある法万のバス停で止まってもらった。安いだけじゃない。融通がきくのも100円バスのいいところだ。ちなみに『切り込み』とはバス業界用語で道路脇に設けられている“バスの停め場”のことを言う。
終点の三本杉上でバスを降りた。
「なんか、県道全体が登山道みたいだなぁ」などとほざきつつ、道ばたの雪の塊をドリブルしながら5人が道いっぱいに広がって歩いた。
県道を野井倉集落方面へ折れ、一向平へ通じる旧道へ。道にも15センチほどの雪があったが、固くしまっていてとても歩きやすかった。
道ばたに1本の梨の木があった。て言うか雪の上に小さな赤梨の実が落ちていて、上を見上げたら枝に同じ果実がついていたからやっと梨の木だとわかった。
樹形がコネリ柿の木みたいに高いから、梨の木にはとうてい見えないのだ。
末石隊員は実を拾うと早速皮をむいた。少しだけ口に入れると、すえたような風味の奥に、梨特有の甘酸っぱさがしっかり残っていた。それにしてもせん定や誘引をしない梨の木は高くなるもんだ。
▲道ばたにあった梨の木。せん定や誘引をしない梨の木は高くなるもんだなあ。
昭和50年頃には営業していた鱒釣り場の跡もきっちり残っていた。
実は僕はその昔、この鱒釣り場に一度来たことがあった。いつ誰と来たのか、例によってその辺の事情はまったく覚えていないが、ここで2,3匹軽く釣ったことは覚えているのだ。
松本さんによれば、山村振興のための補助金を活用して野井倉の人たちが共同で経営し、3年ほど続いたという。
畜産団地からキャンプ場へ通じる直線道路は雪が緩み、歩きにくいことこの上なかった。雪表面から10センチほどだが、きっちり“はまる”のだ。
しばらくは先頭に立って歩いたのだけれど、ズボズボズボズボ・・・。
そーっと歩いてもやっぱりズボズボズボズボ・・・。
え〜かげん腰は痛くなるし、気力も萎えてきたので、先頭を末石隊員に譲って、彼の足跡を楽ちんトレースしていくことにした。
さすがと言うべきか、以外にもと言うべきか米国製のエンジンは素晴らしかった。キャンプ場までの1kmの間、終始馬力が弱ることなく、みんなに足跡を提供し続けてくれた。
▲この時期、一向平キャンプ場を訪れる人はほとんどない。静けさを楽しむにはもってこいの場所。時折アカゲラのドラミングが聞こえた。
途中から僕は尊敬の念を込めて、心の中で、彼をラッセル・スエイシーと呼んだ。
やっぱり歩いてこそ、なのだ。
梨の木もそうだったけど、歩いてみなきゃ何も発見できない。
よーし、今年も歩き倒すぞ〜!
昨年話題になった映画『ALWAYS・三丁目の夕日』にも登場したオート三輪。写真は、マツダ製のオート三輪の荷台に山ほど人が乗っているものだった。
裏を見ると“一向にて”のキャプション。小学校に入るか入らないかぐらいの僕も写っていた。
もちろん、何をしたかはまるで覚えていないけど、たぶん村をあげて一向平へ行き、原っぱで飲んだり食ったり走ったり?して遊んだのだろう。名刺ほどのサイズだから顔は豆粒。でも笑顔がたくさん並んでいたのを覚えている。
その一向平は開拓の地。
もとは野井倉の人たちの土地(山)だったが、戦争が終わって国に強制買収され、昭和23年旧満州から引き揚げてきた13人が入植した。
開墾の困難さに加え、いくら手を入れてもなかなか肥えない土壌。冬の寒さと雪の多さも入植者たちを苦しめ続けた。
毎年一人去り二人去り・・・。高度経済成長の荒波が追い討ちをかけ、昭和47年には全員が一向平を下りた。
そして血と涙と汗によって切り拓かれた土地は日本パルプ、現在の王子製紙に売却された。
なんかプロジェクトXみたいな感じで、知ったかぶりして書いてしまったが、全部、一向平の今昔に詳しい松本薫さん(野井倉)の受け売りなのだ。
◇ ◇
当時の一向平はいったいどんな様子だったのだろう。僕自身、何を隠そう中学2年のとき(1969年)に、これまた何を思ってか森藤の自宅から一向平まで歩いて行ったという記憶があるんだけど、行ったということの他にはな〜んにも覚えていない。ススキの原っぱが広がっていたような気もするけど、まるで定かではない。もう一度歩いたら、何か思い出すかもしれないなぁ・・・なんて軽く考えたのが今回の企画。まずは田村隊員と一緒に浦安駅から100円バスに乗りこんだ。
なんで森藤から歩かずに100円バスに乗るだいや、なんて指摘が聞こえてきそうだが、軽く考えているから何も問題ないのだ。
高松で谷口隊員、下大江で末石隊員、カウベルホールでは朝倉シェルパ隊長がドカドカと乗り込んできた。
たった100円しか払わないのに、浦安駅からずっと貸し切り状態でくつろいでいたら、下光好を過ぎたあたりから末石隊員がバスの後方をしきりに気にし始めた。
聞けば、忘れ物をして、奥さんがそれを届けにバスの後を着いてきているという。
運転手さんに事情を話して、『切り込み』のある法万のバス停で止まってもらった。安いだけじゃない。融通がきくのも100円バスのいいところだ。ちなみに『切り込み』とはバス業界用語で道路脇に設けられている“バスの停め場”のことを言う。
終点の三本杉上でバスを降りた。
◇ ◇
冬場は鏡ヶ成方面が通行止めになっているから、三本杉より上は、この時期極端に交通量が減る。「なんか、県道全体が登山道みたいだなぁ」などとほざきつつ、道ばたの雪の塊をドリブルしながら5人が道いっぱいに広がって歩いた。
県道を野井倉集落方面へ折れ、一向平へ通じる旧道へ。道にも15センチほどの雪があったが、固くしまっていてとても歩きやすかった。
道ばたに1本の梨の木があった。て言うか雪の上に小さな赤梨の実が落ちていて、上を見上げたら枝に同じ果実がついていたからやっと梨の木だとわかった。
樹形がコネリ柿の木みたいに高いから、梨の木にはとうてい見えないのだ。
末石隊員は実を拾うと早速皮をむいた。少しだけ口に入れると、すえたような風味の奥に、梨特有の甘酸っぱさがしっかり残っていた。それにしてもせん定や誘引をしない梨の木は高くなるもんだ。
▲道ばたにあった梨の木。せん定や誘引をしない梨の木は高くなるもんだなあ。
昭和50年頃には営業していた鱒釣り場の跡もきっちり残っていた。
実は僕はその昔、この鱒釣り場に一度来たことがあった。いつ誰と来たのか、例によってその辺の事情はまったく覚えていないが、ここで2,3匹軽く釣ったことは覚えているのだ。
松本さんによれば、山村振興のための補助金を活用して野井倉の人たちが共同で経営し、3年ほど続いたという。
◇ ◇
一向橋を渡り、スギ・ヒノキ林を抜けて一向平へ上っていった。畜産団地からキャンプ場へ通じる直線道路は雪が緩み、歩きにくいことこの上なかった。雪表面から10センチほどだが、きっちり“はまる”のだ。
しばらくは先頭に立って歩いたのだけれど、ズボズボズボズボ・・・。
そーっと歩いてもやっぱりズボズボズボズボ・・・。
え〜かげん腰は痛くなるし、気力も萎えてきたので、先頭を末石隊員に譲って、彼の足跡を楽ちんトレースしていくことにした。
さすがと言うべきか、以外にもと言うべきか米国製のエンジンは素晴らしかった。キャンプ場までの1kmの間、終始馬力が弱ることなく、みんなに足跡を提供し続けてくれた。
▲この時期、一向平キャンプ場を訪れる人はほとんどない。静けさを楽しむにはもってこいの場所。時折アカゲラのドラミングが聞こえた。
途中から僕は尊敬の念を込めて、心の中で、彼をラッセル・スエイシーと呼んだ。
やっぱり歩いてこそ、なのだ。
梨の木もそうだったけど、歩いてみなきゃ何も発見できない。
よーし、今年も歩き倒すぞ〜!